斎藤環 「脳はなぜ心を記述できないか」 講演レポート 1

斎藤環脳はなぜ心を記述できないか」 講演レポート

  • 概要脳科学ブームの昨今、脳で人間の心や社会が説明できるかのような言説がまかり通っている。 しかし実際には、現時点での脳科学は、人間の心や行動を整合的に説明できる学問たりえてはいない。 精神医学者アンリ・エイは、脳の障害と精神症状との間にギャップがあることをふまえて「器質−臨床的隔たり」と呼んだ。 この指摘はいまこそ有用である。 「階層性−非階層性」をキーワードとして、脳科学による心の解明において、設定されるべき限界について述べる。

聴講してきました。



以下、音声ファイルや配布されたレジュメなどを元に、大まかな記録をアップします。
地の文の説明は、とくに断りがない限り、斎藤環氏の発言趣旨をそのまま記録する形になっています。
公開について、講演者である斎藤環氏の許可はいただきましたが、あくまで部分的な記録であり、公式の文字記録ではありませんので、ご注意ください。 講演者ご本人や、参加者の疑義等により、後日内容が変更される可能性があります。


講演レポート2】、 【講演レポート3】、 【講演レポート4







精神医学: 「原因論の三分類」

社会的ひきこもり―終わらない思春期 (PHP新書)』は1998年末の出版だが、じつは同じ年の少し前に『文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ』という本を出していて、こちらが実質上のデビュー作。 これは、「心脳問題」への自分なりの回答だった。 精神医学は、心脳問題と切っても切れない。


精神医学では、精神疾患には原因が3通りあるとされる*1。 逆に言えば、精神医学の原因論はたったこれだけしかない。

  • 器質因: 「脳にはっきりとした原因がある」
    • はっきり「器質因である」と言える疾患は少ない。 自閉症発達障害など(異常部位は特定されていない)。 脳髄の奇形、炎症などを含め、「脳髄の物質的異常」。
  • 内因: 「はっきりした原因がわかっていないが、おそらく脳だろう」
    • うつ病統合失調症*2。 生物学色を強める現代の精神医学では、事実上「器質性疾患」のように扱われ、薬物治療が最優先。 うつ病統合失調症をカウンセリングだけで治そうとする酔狂な人はもう居ない(補助的な意味でカウンセリングや行動療法がある)。
  • 心因: 「たぶん心だろう」
    • PTSD、解離など。 ▼昔は「神経症」「ヒステリー」があったが、現代では心因性疾患のこの二大カテゴリーが消滅した(『DSM-IV』から消えた)。
    • 私たちは心について、時間的・空間的な連続性*3があるものと考えている(「昨日の私は今日の私」)。 その連続性が損なわれた状態のことを「解離」という*4。 解離がいちばん深いところまで行ったのが「多重人格」。 多くは性的虐待などのトラウマによって起こる。 ▼心脳問題のアポリアは解離において極まる。 これだけ行動や記憶に異常が生じるのに、脳髄に異常はなく「心因性」というのだから。 症状としてはいちばん派手といってもいい(統合失調症も今は昔ほど派手ではない*5)。



今日のテーマ、「脳はなぜ心を記述できないか」というのはやや挑発的な内容で、さいきん隆盛を極める脳科学に対するアンチテーゼを、精神分析寄りの立場からどのくらいまで言えるかをお話してみようと思う。
私が脳科学に対して、あるいは生物学的精神医学に対していちばん違和を感じるのは、多重人格のような疾患が「実在する」ということ。 それが「どこに実在するのか」について、脳科学は何も答えてくれない。 脳科学のいちばんの弱点は、器質因に還元して一元論化してしまうこと。 すべては「脳髄の異常」「ニューロンの異常発火」で説明がつく、という“お約束”になっている。 そこでは、「器質因・内因・心因」というような区分けは生じようがない。 それぞれの「記述の限界」に対する感覚が大事なのではないか。





*1:【参照】斎藤環抱擁函 Hug Box あるいはドゥルージアンの発達

*2:かつては「うつ病統合失調症てんかん」を三大精神病と呼んだが、「てんかん」は現代では脳外科が扱うとのこと。

*3:比喩的な意味で

*4:参照:「解離性健忘・遁走

*5:昔は「葦原将軍」など大妄想だったが、今は小さい妄想。

学問の倫理としての「記述の限界」

《記述》というのは、科学や精神医学でよく使う言葉。
真実を「発見する」のは科学の重要な機能であるとして、「いかに現象を記述するか」というのが非常に大事。 「記述の限界」を踏まえなければならない。 「このパラダイムでどこまで記述できるか」「ここから先を記述してよいのか」――そういう限界を踏まえるのが学問的倫理観だが、脳科学者が行きすぎると、「記述の限界」をやすやすと踏み越えてしまう。


脳科学について、大衆向けではない専門的な本を読むと、人間の社会的な行動を記述するレベルにはまったくたどり着いていない。 せいぜい原始的な「物の認識」「腕の上げ下げ」などについてのみ(このあたりが限界にも思えるが、未発達なだけかもしれない)。――にもかかわらず、脳科学者たちはすぐにその先に突っ走ってしまう傾向がある。
「子供の脳にいい子育て」とか、「脳トレのゲーム」などがよく語られるが、こういうのは諸刃の剣で、脳にいいゲームがあるということは、脳に悪いゲームもあることになってしまう*1。 そこから「ゲーム脳」まではあと一歩。
ゲーム脳」というのは、森昭雄という人が思いつきで作り上げたニセ科学だが、「ゲームは脳に悪いに違いない」と思い込みたい人が多いために、一定のお墨付きを与えた。 本としては非常にお粗末なもので、これについては私(斎藤)は、ウェブ上に詳細な反論を公開している。 森氏は、「ゲームをした人は脳波に異常が出る」というのだが、脳波の測定の方法、脳波の解釈法など、ことごとくが教科書レベルの知識すら欠けた内容になっている。 つまり森氏の議論は、「ロジックの間違い」ではなく「知識の間違い」。 致命的で、話にならない。 そういうレベルの議論がまかり通ってしまうぐらい、「脳」というのは危険なキーワードといえる。


最近では精神科医岡田尊司氏が、『脳内汚染』というとんでもない本を書いている。 「子どもたちの心が、コンピューターやゲームから脳に入ってくる情報によって汚染されている」という“画期的な”新説。 つまり「情報がウイルスと同じ働きをする」と言ってしまっている。 困ったもの。
岡田氏は脳科学の専門家ではなく、医療少年院精神科医。 理系出身者が脳について語ると、人文系の人がありがたがって受け入れる、という困った図式がある。 この「脳内汚染」という本については、有名なフランス文学者・鹿島茂氏が絶賛した*2ことで広まったいきさつがある。 ここらへんに、文系と理系のデバイドを感じる。
人文系の人はいつもはシニカルなのに、「脳」というマジックワードを出されるとあっさり陥落してしまう。 「脳については大したことはまだ何もわかっていない」という現状認識は、もっと共有されるべき。 すぐに議論が飛躍してしまうのが、脳科学ブームの困ったところ。





「心の活動は、脳の活動に完全に翻案できるか?」

大まかな比喩としてパソコンで考えてみると、次のようになる。

    • 器質因: ハードウェア(CPU)
    • 内因: オペレーション・システム(WindowsMacOSなど)
    • 心因: ソフトウェア(アプリケーション)

パソコンが故障した場合、私たちは「どのレベルの異常か」を考える。 アプリケーションの異常ならば再起動や再インストールでよく、ハードウェア自体をいじる必要はない。 部品そのものが壊れているなら、物質そのものに働きかけるしかない。 どのレベルの異常かによって、アプローチの仕方が異なるのは、人の場合と同じ。 心に起きている異常について、常にそれを脳髄の問題と考えるのは、「アプリケーションソフトが誤作動するたびにハードウェアの異常を疑う」ようなもので、無駄すぎる。


ヒステリーにおいては、ありとあらゆる多彩な身体症状がリアルに出現するが*1、ハードウェアとしての身体にはどこにも異常がない。 これはあくまで「心=ソフトウェア」レベルの問題で、だからカウンセリングが有効。 「多重人格」は、見ようによっては現代的なヒステリーのひとつの形式ではないかと言われている。


ベルクソンは、脳と心の関係を「ハンガー」と「そこにかかっている洋服」にたとえた。 ハンガーが壊れれば洋服は落ちてしまうが、だからといって洋服とハンガーは同じではない。 洋服をかけるためには(心が存在するためには)、ハンガー(脳)が必要だが、心と脳は同一物ではない。


たとえばワープロソフトでは、Windows マシンから Macintosh に乗り換えた場合、ハードウェアもOSもすべてまったく違うものになるが、アプリケーションとしては同じ機能が期待できる。 これは精神分析に近い考え。 たとえばジジェクは、「人間が人間であるためには、脳髄が人間の脳髄である必要はない」という*2。 映画『ブレードランナー』では、レプリカントという「人間もどき」が出てきて、「自分が人間かどうか」で悩むのだが、ジジェクによれば「過去の記憶を持っていて内省できる存在はすべて人間である」。 だからレプリカントは人間だというのだが、これはある意味で正しい議論。 つまり、人間というアプリケーションが動くハードだったら、人工的な脳髄であってもかまわない。――これは、心脳問題をクリアする突破口のひとつではないか。

 ある症状を示す精神疾患で、その症状に対応する脳の放電が見つかったとして、症状と放電は同一物とは言えない。 放電が症状に変換されるまでにはいくつかの段階が考えられるため、他の部位の放電が全く同一の症状をもたらす可能性を権利上は否定できない。 (斎藤環氏のレジュメより)


  • アンリ・エイ(Henri Ey)の問題提起:「器質−臨床的隔たり」
    • 器質因と症状の対応関係が、必ずしも明確なものではない。 たとえば自閉症との関連がしばしば指摘される fragile-X syndrome にしても、その器質因がもたらす結果はかなり多彩なものである。 あるいは自閉症と同じ症状をもたらす脳の器質的異常が複数知られている。いずれの例も、単一の器質因と精神症状を一次結合させることの不当さを示している。 (レジュメより)








*1:「歩けない」「腕が麻痺」「目が見えない」など

*2:【斎藤注】: あくまで思考実験であって、実際には(まだ)無理。

クオリア問題

いま、心脳問題のいちばんクリティカルな、重要なトピックと考えられている。
日本では茂木健一郎氏が旗振り役。


「主観的質感の起源を脳内に求めることが可能か?」という話。

 クオリアとは、「赤の赤らしさ」や、「バイオリンの音の質感」、「薔薇の花の香り」、「水の冷たさ」、「ミルクの味」のような、私たちの感覚を構成する独特の質感のことである。 (「クオリア・マニフェスト」)

今この瞬間に感じている固有の感覚。
いわば、赤の赤らしさを認識している心の働きに対する感覚。


クオリアがなぜ科学の言葉に翻訳しにくいかといえば、科学は「普遍性」を扱うためのツールだが、クオリアは「固有性」を扱うものだから。 固有性は、通常の科学の記述限界を超えている(固有性は科学に馴染まない)。




以下、「クオリア・マニフェスト」より*1

 私たちの心(mind)の中の様々な「クオリア」(qualia)に対応する物質的過程の性質を明らかにすること、あるいはこのような「対応関係」のメタファー自体を超えることが本質的である。 この作業は、自然科学を従来の客観的視点に立った自然の記述のみを目的とする物理主義の科学から脱皮させ、主観的な視点の起源をも視野に入れることを伴うだろう。 すなわち、私たちは、私たちの心的現象をも、自然現象の一部とみなし、心的現象をも自然科学の記述の対象とするのである。

ものすごく大胆なことを言っている。 ほとんど科学の否定。


「私の心」という主観性の構造を、どのように科学的に位置づけるかという終着点をもつ議論であり、実現すれば大きな革命であることは間違いない。 しかし、主観的なものを科学がどう扱うかについては、もう少し慎重な議論が必要ではないか。



ホムンクルス」批判

ホムンクルスとは、脳内に主観性の座を想定する仮説*2。 しかしこれでは「ホムンクルスの中のホムンクルス」を想定することになり、無限後退に陥ってしまう。 これに対して茂木氏:

 自己の内なるものの関係性を、「外」にあるかのごとく認識するというメタ認知のプロセスを通して、ホムンクルスの「小さな神の視点」は生み出される。 すなわち、「メタ認知ホムンクルス」とでも言うべきモデルに到達するのである。 (茂木健一郎脳内現象 (NHKブックス)』より)

これ↑をよく読んでみると、「ホムンクルスは、事後的に投影されたニセの表象だ」という話になっており、事実上のホムンクルス仮説の否定になっている。



河本英夫システム現象学―オートポイエーシスの第四領域』より*3

 活動の内感の一部を認知というかたちで述べたものが、クオリアである。 ところがクオリアを知ることは、活動のごく側面的な一部でしかない。 情報ではなく、調整能力という別立ての働きの領域、すなわち行為の領域が示されているだけである。 緑色の情報とは異なるなにか(情感など)を感じ取っているのは、おもに認知と感情が連動する側頭連合野に依存した働きであり、クオリアは情報としての認知がそもそも行われていない事態を、あらかじめ情報に帰着したために起きた擬似問題である。

脳の活動の過程を、脳の別の部分がメタ認知する。
その過程に対する感覚がクオリアである、というのが河本氏の説明。
赤を「赤い」と認識するのはふつうの神経過程だが、その神経過程そのものに対する認識を「クオリア」と呼んでいる。 何かを認識したという実感・手ごたえ。 つまりクオリアは、それ自体が「メタ認知」という側面を持つ。



「顔のクオリア」はいかにして可能か?(斎藤環氏の問題提起)

顔の認識というのは非常に奇妙なもので、コード化されていない。 赤なら「赤」という言葉が、木なら「木」という言葉が同時に浮かぶが、顔の場合は「顔」という言葉ではなくて、その人の名前などが思い浮かぶ。
顔の同一性は、情報やパターンではなく、「その人の固有性」としか言いようのないものとして認識されている(そうでないと、何十年ぶりに再会した同級生の顔を誤りなく認識するのは不可能)。 安全管理などの「顔認証システム」はあるが、これは情報に依存するタイプのパターン認識であり、変装を見破ることができない。 かなり大雑把な認知パターン。 ▼「顔の“顔的なもの”」(顔のクオリア)は、どこから来ているのか。 顔の認識は、同一性と差異性の双方に開かれていて、「赤を赤と認識している」のとは違った事情になっている。







*1:斎藤氏のレジュメに引用されている

*2:もとはケプラー

*3:斎藤氏のレジュメに引用されている

器質的主体(OS)と、精神分析的主体(PS)

OS は「Organic Subject」、 PS は「Psychoanalytic Subject」の略。


人間の認識は、「同一性」の認識と、「差異性」の認識に大別できる。
「同一性」に対しては脳の器質的なものの機能が優位。
「差異性」の認識については脳は無関係で、ソフトウェア的なものが優位。
心が差異性に強いのは、言語的な構造を持っているから。*1
――これがいちばん基本となる仮説であり、「記述の限界」設定をする2つの基本概念。
つまり、人間の主体を考える場合に、器質的な方法から記述するか、精神分析的な方法から記述するかの2通りがあり、それぞれに記述の限界を抱えている。 この2つの記述限界のそれぞれを、十分に検証する必要がある。


(配られた斎藤環氏のレジュメに記載されている表を引用)

OSPS
器質因(ハードウェア)心因(ソフトウェア)
同一性に反応差異性に反応
自然科学的因果律*2構造的因果性*3
予見可能性*4事後性*5
コミュニケーションは可能*6コミュニケーションは不可能*7
階層性*8非階層性*9
文脈と学習*10言語(症状)と反復

    • 因果律には、「自然科学的」と「構造的」の二種類ある。 心の動きを見る時にはどちらも欠かせない。
    • 心の問題を脳科学に還元できるなら、心は物質科学ですべて予見可能になってしまうが、それは実際には不可能。 ひとつの体験がどのような行動や症状をもたらすかについてのパラメーターが多すぎて、「複雑系」とか「量子力学」とかでお茶を濁すほかない。
    • オッカムの剃刀(かみそり)」(説明原理は少ないほうがいい)という科学の考え方があるが、仮説を節約するためにも、一方向からの説明原理に固執して過剰に複雑化するよりは、双方向性があったほうがいいのではないか。
    • 脳神経系という階層的なハードウェアの上で、非階層的なソフトウェアが作動している。




■それぞれの記述限界について。

  • OSの側で可能になっているのが、「文脈の認識」と「ものごとの学習」。 なぜこれが起こるのかは、PS側からは記述できない(「なぜか起こる」としか言いようがない)。 あるいはラカン的に言えば、それは「現実界で起こる」としか言いようがない。 ラカンの記述用語には、「学習」とか「コンテクスト」に相当する語はない。
  • 逆に、精神分析の中核にある「言語」「反復」については、なぜそれが起こるのかをOS側の記述用語では説明できない。


 「赤のクオリア」とは、「赤の赤らしさ」(≒同一性)を感ずるときの「同定感」に対するメタ認知を、PSの側から記述したものである。 「言語」や「症状」についてのクオリアが生じにくいのは、こうしたメタ認知が生じにくいことによる。 (斎藤氏のレジュメでの説明より)

純粋な差異性の認識に対してはクオリアは生じない(仮説)。
「赤の赤らしさ」などの場合には、余裕を持って「味わっている」状態。 余裕のない状況での「クオリア感」は生じにくい。


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*1:斎藤氏の仮説

*2:「原因には結果が伴う」

*3:原因があっても結果が伴うとは限らないが、結果には原因が伴う(事後的な認識)。 【たとえば、いじめは必ずPTSDになるわけではないが(重層決定)、PTSDには何か原因がある。】 フランスのマルクス主義思想家アルチュセールの用語。 ▼「事後性の科学」としてのフロイト/ラカン精神分析の根幹をなす説明原理。

*4:再現性がある

*5:予見性はないが、ある種の「結果」について原因を探索する場合には、自然科学以上に威力を発揮する。

*6:脳やコンピューターは接続性が高く、たとえば2台のコンピューターは接続して1台として扱うことすら可能。

*7:「事実としては可能だが、原理としては不可能」。 なぜなら、心と心はコードを共有していないから。 コミュニケーションは言葉を使うが、言葉は多義的で文脈依存的であり、一義的に決定できない。 意味を推測し合って「たまたま一致」すれば会話が成立する。

*8:「サブシステムを持つ」「メタレベルを持つ」。 【cf.大脳皮質は、全哺乳類を通じて六層構造をもつ。】

*9:心については、メタレベルはない。 【cf.「メタ言語はない」(ラカン)】

*10:ラカンの用語には、この2語に相当する語はない。