超越性――「タダ働きの労働過程」

ジャン・ウリの発言より。*1

 私が言う超越性とは、もの自体とか、そんなことには関係しないよ。 それは、ただ働きの持っている性格なのだよ。 役割にこだわらないための役割の分析など、ただ働きにしかすぎないだろう。 だれもそんなことに金をはらってくれない。 でも、それこそが重要なのだよ。 そんな仕事にこそ超越性があるものなのだよ。

与えられた役職に同一化するだけの労働過程には、超越性がない。
自己分析も制度分析も起きない。





マルクス 「労働過程」 Arbeitsprozeß (独) labor process (英)

資本論 (1) (国民文庫 (25))』 第五章 第1節 (以下、強調は引用者)  ドイツ語原文:「Arbeitsprozeß und Verwertungsprozeß

 労働力の使用は労働そのものである。 Der Gebrauch der Arbeitskraft ist die Arbeit selbst. 労働力の買い手は、労働力の売り手に労働をさせることによって、労働力を消費する。 このことによって労働力の売り手は、現実に、活動している労働力、労働者になるのであって、それ以前はただ潜勢的にそうだっただけである。 彼の労働を商品に表わすためには、彼はそれをなによりもまず使用価値に、なにかの種類の欲望を満足させるのに役立つ物に表わさなければならない。 だから、資本家が労働者につくらせるものは、ある特殊な使用価値、ある一定の品物である。使用価値または財貨の生産は、それが資本家のために資本家の監督のもとで行われることによっては、その一般的な性質を変えるものではない。 それゆえ、労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならないのである。 Der Arbeitsprozeß ist daher zunächst unabhängig von jeder bestimmten gesellschaftlichen Form zu betrachten.
 労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。 この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。 Die Arbeit ist zunächst ein Prozeß zwischen Mensch und Natur, ein Prozeß, worin der Mensch seinen Stoffwechsel mit der Natur durch seine eigne Tat vermittelt, regelt und kontrolliert.  人間は、自然素材にしたいして彼自身一つの自然力として相対する。 Er tritt dem Naturstoff selbst als eine Naturmacht gegenüber.  彼は、自然素材を、彼自身のために使用されうる形態で獲得するために、彼の肉体に備わる自然力、腕や脚、頭や手を動かす。 Die seiner Leiblichkeit angehörigen Naturkräfte, Arme und Beine, Kopf und Hand, setzt er in Bewegung, um sich den Naturstoff in einer für sein eignes Leben brauchbaren Form anzueignen. 人間は、この運動によって自分の外の自然に働きかけてそれを変化させ、そうすることによって同時に自分自身の自然(天性)を変化させる。 Indem er durch diese Bewegung auf die Natur außer ihm wirkt und sie verändert, verändert er zugleich seine eigne Natur. 彼は、彼自身の自然のうちに眠っている潜勢力を発現させ、その諸力の営みを彼自身の統御に従わせる。 Er entwickelt die in ihr schlummernden Potenzen und unterwirft das Spiel ihrer Kräfte seiner eignen Botmäßigkeit.

人類史から労働過程が失われることはない。

 ここでは、労働の最初の動物的な本能的な諸形態は問題にしない。 Wir haben es hier nicht mit den ersten tierartig instinktmäßigen Formen der Arbeit zu tun. 労働者が彼自身の労働力の売り手として商品市場に現れるという状態に対しては、人間労働がまだその最初の本能的な形態から抜け出していなかった状態は、太古的背景のなかに押しやられているのである。 Dem Zustand, worin der Arbeiter als Verkäufer seiner eignen Arbeitskraft auf dem Warenmarkt auftritt, ist in urzeitlichen Hintergrund der Zustand entrückt, worin die menschliche Arbeit ihre erste instinktartige Form noch nicht abgestreift hatte. われわれは、ただ人間だけにそなわるものとしての形態にある労働を想定する。 Wir unterstellen die Arbeit in einer Form, worin sie dem Menschen ausschließlich angehört.

主観性そのものが、人間だけにそなわる形態の労働過程である。





使用価値としての労働力

マルクス資本論草稿集〈1〉1857-58年の経済学草稿 (1981年)』 pp.314-315

 交換価値は、一つの生産物のうちに物質化されており、そしてこの生産物はそのものとして他人のための使用価値をもち、またそのものとして他人の欲求の対象であった。 ところが労働者が資本に対して提供しなければならない使用価値、したがって彼が一般に他人のために提供しなければならない使用価値は、生産物のうちに物質化されてはおらず、およそ彼の外部に存在するものではなく、したがって現実に存在しているものではなく、ただ可能性としてのみ、彼の能力としてのみ存在しているにすぎない。 それは、資本によって求められ、運動の中に置かれてはじめて現実性となる。 なぜなら対象を持たない活動など、無であるか、またはせいぜいのところ思考活動であって、こんなものはここでは問題にならない。この使用価値は、資本から運動を受け取るようになるや否や、労働者の一定の生産的活動として存在する。 それは、一定の目的に向けられた、それにえにまた一定の形態で発現する労働者の生命力そのものである。






『資本論 (3) (国民文庫 (25))』 労働と所有の分離

第21章 「単純再生産」 ドイツ語原文:「Einfache Reproduktion

 貨幣を資本に転化させるためには、商品生産と商品流通とが存在するだけでは足りなかった。 まず第一に、一方には価値または貨幣の所持者、他方には価値を創造する実体の所持者が、一方には生産手段と生活手段の所持者、他方にはただ労働力だけの所持者が、互いに買い手と売り手として相対していなければならなかった。 つまり、労働生産物と労働そのものとの分離、客体的な労働条件と主体的な労働力との分離が、資本主義的生産過程の事実的に与えられた基礎であり出発点だったのである。 (p.115)
 Scheidung zwischen dem Arbeitsprodukt und der Arbeit selbst, zwischen den objektiven Arbeitsbedingungen und der subjektiven Arbeitskraft, war also die tatsächlich gegebne Grundlage, der Ausgangspunkt des kapitalistischen Produktionsprozesses.
 ところが、はじめはただ出発点でしかなかったものが、過程の単なる連続、単純生産によって、資本主義的生産の特有な結果として絶えず繰り返し生産されて永久化されるのである。 一方では生産過程は絶えず素材的富を資本に転化させ、資本家のための価値増殖手段と享楽手段とに転化させる。 他方ではこの過程から絶えず労働者が、そこに入ったときと同じ姿で――富の人的源泉ではあるがこの富を自分のために実現するあらゆる手段を失っている姿で――出てくる。 彼がこの労働に入る前に、彼自身の労働は彼自身から疎外され、資本家のものとされ、資本に合体されているのだから、その労働はこの過程の中で絶えず他人の生産物に対象化されるのである。
 ・・・・・・こうして、資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。 (p.127)
 Der kapitalistische Produktionsprozeß reproduziert also durch seinen eignen Vorgang die Scheidung zwischen Arbeitskraft und Arbeitsbedingungen.



p.138 第22章 「剰余価値の資本への転化」 ドイツ語原文:「Verwandlung von Mehrwert in Kapital

 所有は、今では、資本家の側では他人の不払い労働またはその生産物を取得する権利として現われ、労働者の側では彼自身の生産物を取得することの不可能として現われる。 所有と労働との分離は、外観上両者の同一性から出発した一法則の必然的な帰結になるのである
 Die Scheidung zwischen Eigentum und Arbeit wird zur notwendigen Konsequenz eines Gesetzes, das scheinbar von ihrer Identität ausging.

    • 【この箇所に付された原文注23】: 他人の労働生産物の資本家による所有は、「逆に各労働者による自分の労働の生産物の排他的所有権をその根本原理とした取得の法則の厳密な帰結なのである。」(シェルビュリエ『富か貧か』、パリ、1841年、58ページ。だが、そこではこの弁証法的な反転が正しく説明されてはいない。)
    • 【注23のドイツ語原文】: (23) Das Eigentum des Kapitalisten an dem fremden Arbeitsprodukt "ist strenge Konsequenz des Gesetzes der Aneignung, dessen Fundamentalprinzip umgekehrt der ausschließliche Eigentumstitel jedes Arbeiters am Produkt seiner eignen Arbeit war", (Cherbuliez, "Richesse ou Pauvreté", Paris 1841, p. 58, wo jedoch dieser dialektische Umschlag nicht richtig entwickelt wird.)

排他的所有権の帰結としての、労働と所有の分離。





絶対的貧困

マルクス資本論草稿集〈1〉1857-58年の経済学草稿 (1981年)』 pp.353-355*1、強調は引用者。

 所有の労働からの分離は、資本と労働とのこの交換の必然的法則として現れる。 非資本そのものとして措定された労働は次のようなものである。

  • (1)対象化されていない労働〔Nicht-vergegenständlichte Arbeit〕、否定的に把握されたそれ(それ自体としてはやはり対象的であるが、客体的形態にあっては非対象的なものそれ自体なのである)。 このようなものとしては、労働は、非原料、非労働用具、非原料生産物であり、あらゆる労働手段と労働対象から、つまり労働の全客体性から切り離された労働である。 それは、労働の実在的現実性のこれらの諸契機からの抽象として存在する生きた労働(同様に非価値)であり、このような丸裸の存在〔völige Entblösung〕、あらゆる客体性を欠いた純粋に主体的な労働の存在なのである。 それは、絶対的貧困〔absolute Armut〕としての労働、すなわち対象的富の欠乏としての貧困ではなく、それから完全に締め出されたものとしての貧困なのである。 あるいはまた、存在している非価値そのものとして、したがってまた媒介なしに存在する純粋に対象的な使用価値として、この対象性は、人格から切り離されていない対象性、人格の直接的肉体性〔Leiblichkeit〕と一体化した対象性でしかあり得ない。 その対象性がまったく直接的であるからこそ、それはまた直接的に非対象性でもある。 言いかえると、それは個人そのものの直接的定在を離れては存在しえない対象性なのである。
  • (2)対象化されていない労働、非価値、肯定的に把握されたそれ、すなわち自分自身にかかわってくる否定性、それは、対象化されていない、したがって非対象的な、すなわち主体的な、労働そのものの存在である。 それは、対象としての労働ではなく、活動としての労働であり、それ自体価値としての労働ではなく、価値の生きた源泉としての労働である。 それは、富が対象的に現実性として存在する資本に相対して、行為のなかで自己をそのものとして確証する富の一般的可能性としての一般的富である。

 こうして労働が一方では対象としては絶対的貧困でありながら、他方では主体として、活動としては富の一般的可能性であるということは、いささかも矛盾することではない。 というよりむしろ、いずれにせよ自己矛盾しているこの命題は、相互に条件付けあっているものであって、労働が資本の対立的定在として、資本によって前提されるとともに、他方では労働のほうでも資本を前提するという、労働の本質から生じている。

同箇所の「ドイツ語原文」(PDF)より:

 Trennung des Eigentums von der Arbeit erscheint als notwendiges Gesetz dieses Austauschs zwischen Kapital und Arbeit. Die Arbeit als das Nicht-Kapital als solches gesetzt, ist-.

  • 1. Nicht-vergegenständlichte Arbeit, negativ gefaßt (selbst noch gegenständlich; das Nichtgegenständliche selbst in objektiver Form). Als solche ist sie Nicht-Rohstoff, Nicht-Arbeitsinstrument, Nicht-Rohprodukt: die von allen Arbeitsmitteln und Arbeitsgegenständen, von ihrer ganzen Objektivität getrennte Arbeit. Die lebendige als Abstraktion von diesen Momenten ihrer realen Wirklichkeit existierende Arbeit (ebenso Nicht-Wert); diese völlige Entblößung, aller Objektivität bare, rein subjektive Existenz der Arbeit. Die Arbeit als die absolute Armut: die Armut, nicht als Mangel, sondern als völliges Ausschließen des gegenständlichen Reichtums. Oder auch als der existierende Nicht-Wert und daher rein gegenständliche Gebrauchswert, ohne Vermittlung existierend, kann diese Gegenständlichkeit nur eine nicht von der Person getrennte: nur eine mit ihrer unmittelbaren Leiblichkeit zusammenfallende sein. Indem die Gegenständlichkeit rein unmittelbar ist, ist sie ebenso unmittelbar Nicht-Gegenständlichkeit. In andren Worten keine außer dem unmittelbaren Dasein des Individuums selbst fallende Gegenständlichkeit.
  • 2. Nicht-vergegenständlichte Arbeit, Nicht- Wert, positiv gefaßt, oder sich auf sich beziehende Negativität, ist sie die nicht-vergegenständlichte, also ungegenständliche, i.e. subjektive Existenz der Arbeit selbst. Die Arbeit nicht Als Gegenstand, sondern als Tätigkeit; nicht als selbst Wert, sondern als die lebendige Quelle des Werts. Der allgemeine Reichtum, gegenüber dem Kapital, worin er gegenständlich, als Wirklichkeit existiert, als allgemeine Möglichkeit desselben, die sich in der Aktion als solche bewährt.

Es widerspricht sich also in keiner Weise oder vielmehr der in jeder Weise sich widersprechende Satz, daß die Arbeit einerseits die absolute Armut als Gegenstand, andrerseits die allgemeine Möglichkeit des Reichtums als Subjekt und als Tätigkeit ist, be. dingen sich wechselseitig und folgen aus dem Wesen der Arbeit, wie sie als Gegensatz, als gegensätzliches Dasein des Kapitals vom Kapital vorausgesetzt ist und andrerseits ihrerseits das Kapital voraussetzt.

同箇所の「英訳」より:

 Separation of property from labour appears as the necessary law of this exchange between capital and labour. Labour posited as not-capital as such is:

  • (1) not-objectified labour [nicht-vergegenständlichte Arbeit], conceived negatively (itself still objective; the not-objective itself in objective form). As such it is not-raw-material, not-instrument of labour, not-raw-product: labour separated from all means and objects of labour, from its entire objectivity. This living labour, existing as an abstraction from these moments of its actual reality (also, not-value); this complete denudation, purely subjective existence of labour, stripped of all objectivity. Labour as absolute poverty: poverty not as shortage, but as total exclusion of objective wealth. Or also as the existing not-value, and hence purely objective use value, existing without mediation, this objectivity can only be an objectivity not separated from the person: only an objectivity coinciding with his immediate bodily existence. Since the objectivity is purely immediate, it is just as much direct not-objectivity. In other words, not an objectivity which falls outside the immediate presence [Dasein] of the individual himself.
  • (2) Not-objectified labour, not-value, conceived positively, or as a negativity in relation to itself, is the not-objectified, hence non-objective, i.e. subjective existence of labour itself. Labour not as an object, but as activity; not as itself value, but as the living source of value. [Namely, it is] general wealth (in contrast to capital in which it exists objectively, as reality) as the general possibility of the same, which proves itself as such in action.

Thus, it is not at all contradictory, or, rather, the in-every-way mutually contradictory statements that labour is absolute poverty as object, on one side, and is, on the other side, the general possibility of wealth as subject and as activity, are reciprocally determined and follow from the essence of labour, such as it is presupposed by capital as its contradiction and as its contradictory being, and such as it, in turn, presupposes capital.

労働の全客体性から切り離された、生きた火としての「絶対的貧困」。



 資本に相対する労働について、さらに注意を払うべき最後の点は、この労働が、資本として措定された貨幣に対立するその使用価値として、あれやこれやの労働ではなく、労働そのもの〔Arbeit schlechthin〕、抽象的労働であり、労働の特殊的な規定性に対してはまったく無関心であるが、しかしまたどのような規定性をも持ちうるということである。 ある規定された資本を存立させている特殊的な実体には、もちろん特殊的な労働としての労働が対応しなければならないが、資本そのもの〔Capital als solches〕は、その実体の総体性としてあるとともに、その実体のあらゆる特殊性の捨象としてもあって、自己の実体の特殊性に対してはいっさい無関心であるから、資本に相対する労働のほうも、主体的には同一の総体性と抽象性とを即自的にもっている。
 Der letzte Punkt, worauf noch aufmerksam zu machen ist, in der Arbeit, wie sie dem Kapital gegenübersteht, ist der, daß sie als der dem als Kapital gesetzten Geld gegenüberstehende Gebrauchswert nicht diese oder jene Arbeit, sondern Arbeit schlechthin, abstrakte Arbeit ist; absolut gleichgültig gegen ihre besondre Bestimmtheit, aber jeder Bestimmtheit fähig. Der besondren Substanz, worin ein bestimmtes Kapital besteht, muß natürlich die Arbeit als besondre entsprechen; aber da das Kapital als solches gleichgültig gegen jede Besonderheit seiner Substanz, und sowohl als die Totalität derselben wie als Abstraktion von allen ihren Besonderheiten ist, so die ihm gegenüberstehende Arbeit hat subjektiv dieselbe Totalität und Abstraktion an sich.

同箇所の「英訳」:

 The last point to which attention is still to be drawn in the relation of labour to capital is this, that as the use value which confronts money posited as capital, labour is not this or another labour, but labour pure and simple, abstract labour; absolutely indifferent to its particular specificity, but capable of all specificities. Of course, the particularity of labour must correspond to the particular substance of which a given capital consists; but since capital as such is indifferent to every particularity of its substance, and exists not only as the totality of the same but also as the abstraction from all its particularities, the labour which confronts it likewise subjectively has the same totality and abstraction in itself.

実存の唯物論

【参照】: 『経済学・哲学草稿』での、同趣旨の議論