「自由連想法」 free association method

精神分析事典』p.184-5

 精神分析技法を構成する方法で、患者は、治療の間、心に浮かんできたことをまったく区別することなくすべて表出しなければならない。
 自由連想法は、1892年に、フロイトがある治療のさなかに暗示をえたもので、その治療中、彼の患者の一人(エミー・フォン・N.)が、自分が考えている途中に介入せずに、自由に喋らせておいてほしいと彼にはっきりと要求したのであった。 次第に、この方法は、旧来のカタルシス法にとって代わり、1989年に決定的に採用されるに至ったのだが、それ以後精神分析治療の基本的規則、無意識を探求する特権的な手段となった。 患者は、彼の思考、観念、心像、感情を、それらが彼に浮かんできたままに、選別や制限をすることなく、たとえそうした素材が、支離滅裂で、猥褻で、無作法で、重要性がないと思っても、すべて表出しなければならない。 こうした連想は、ある単語、夢の中の一要素、あるいは、自発的な思考により思い浮かべられる全く別の対象を用いて、導入することができる。 この規則を尊重することによて、無意識的な表象が浮かび、抵抗のメカニズムが現実化するのが可能となる。



個人のなす「社会的行為」を、自由連想的な営みそのものと見てみる。
【強いて言うならば、「神の自由連想」?】
何をやっているのかは本人にはよく分からないし、生身の人間という身の上では、わかるわけもない。 ただ、「事後的に分析を試みる」というスタイルの引き受けにおいて、体験を吟味する。 そういう分析スタイルにおいて、現象経験を構造化する。
反復強迫的に暴走する「終わりなき再帰性」と一体化しつつ、倫理的な探求を労働としつつ。
自己の社会化が、事後的な自己確認のナルシシズム(商品的成就)ではなく、賭けの要素を残しながらの「プロセス」として、「労働」として、遂行=推敲されるように。




内戦――分析プロセスの共有

面白いほどよくわかるフロイトの精神分析―思想界の巨人が遺した20世紀最大の「難解な理論」がスラスラ頭に入る (学校で教えない教科書)』 p.146

 フロイトが残した言葉に、次のようなものがあります。 「精神分析による治療は、国外からの同盟軍の力を借りて決戦を行なわなければならない内戦のようなものだ」。
 これは、決戦を行なうのは治療者ではなく患者であるということで、治療者が患者を治すという一般的な治療関係からすると特殊に見えるかもしれません。

同盟軍の力を借りるのはいいとして、その「借り方」が技法論にあたる。
私が共有したいのは、プロセスとしてのメタな分析であって、実体的な希望ではない。
非日常の経験そのものとしての「メタ分析」が共有できないなら、支援者や他の当事者は、「仲良くしなければならないプレッシャー」を与えるだけの存在になってしまう。 【これが、私が「たまり場」の苦手な理由。】







「享楽」 jouissance (仏)  Geniessen, Befriedigung (独)  enjoyment (英)

精神分析事典』 p.87-8

 欲望し話す主体が、欲望された対象の使用によって到達し感じる満足とのさまざまな関係。
 欲望する主体が話すこと、ラカンが言うように主体が話す存在であること、つまり言存在(être-de-parole*1であるということは、対象との関係が直接的ではないことを意味している。 この非−直接性は欲望された対象へ接近可能であるとか不可能であるとかいうことには還元できない。 そして、享楽と快感の区別も、待機、不満、喪失、喪、緊張、苦痛などと満足とのかかわりに解消されるわけではない。 実際、フロイト精神分析ラカン精神分析も享楽という概念の独自性を、われわれの欲望は言葉との関係によって構成されているという事実に置いている。
 それゆえ、この享楽という用語はその日常的に使用されている意味とは区別される。 日常的には、享楽はさまざまな快感の機会と混同されている。 しかし享楽とは欲望にかかわるのであり、正確には無意識の欲望にかかわるのである。 そのことから、この概念が情動や感情や情緒といったものについての考察をどれほど踏み出るものであるかが分かるであろうし、無意識の諸シニフィアンによって提起される対象との関係の問題にかかわっていることがわかるであろう。
 享楽という用語はラカンによって精神分析の領野に導入された。 この概念は、フロイトの「満足 Befriedigung」についての考察を引き継ぐものであるが、満足とは違っている。 「享楽 jouissance」という用語は、その語源にさかのぼることと、その法律上の意味を検討することとで解明することができるであろう。 中性の joy は騎士道の詩において成就された性的満足を意味したし、一方、財産の享楽(使用)は、財産の所有とは区別された。
 精神分析の観点からは、満足に関する複雑な問題、とりわけ満足と性との関係に力点が置かれる。 それゆえ、享楽は快感(plaisir)とは対立するものである。 快感とは、心的装置の緊張を最低水準にまでさげることである。 しかしながら、この種の純粋快感という考えは人間主体が何を体験しているかを議論するにはふさわしいものかどうかは疑問である。 というのも、主体の欲望も快感も不快も象徴的体系の網目に捕らえられているからであり、この象徴の体系はすべて言語に依存しているからである。 だから単なる放出という考え方は、この満足のために根源的に求められているもの、それは意味なのだから、なおさら戯画的であると言える。
 【中略】 ・・・・であるから、享楽はこの状況に適した唯一の述語ということになるであろうし、また満足や不満は、単にエネルギーの平衡の状態にのみよるのではなく、内的な緊張といった知覚できないものとの関係ではなく、それを支配する法とともに言語の領野との関係によるということになる。 この言語の領野を支配する法とは、「私は意味を聞く J’ouis sens.」というものである。

    • 「享楽 jouissance ジュイッサンス」
    • 「私は意味を聞く J’ouis sens. ジュイサンス」

これはラカンの語呂合わせであって*2、言葉なしに、つまり言語という根源的に間主観的次元のものなしにまったくそれだけで享楽するモナド的動物という神話的観念と決別しようとするものである。 人間は話すという事実から、すなわちラカンが示したように「無意識はひとつの言語として構造化されている*3」という事実から、享楽とは、欲求(besoin)の穴埋めをする対象によってもたらされた満足であると考えるわけにはいかない。 享楽という用語のみが適切であり、享楽は禁止 interdite されている。 とはいえ、それは検閲によって抹消されているという安易な意味での禁止ではなく、言われるものの間に inter-dite ある。 すなわち享楽は言語の素材そのものからできており、その言語の素材のなかで、欲望はその衝撃力とその規則を見出すのである。

人間の倫理的営みと、言語との関係。
言語の営みを徹底させるなら、ナルシスティックな耽溺に終わることはできない。



*1:ラカンは「parler 話す」と「être 存在」を組み合わせ、parlêtreと一語で言うことがある。

*2:上山注:さらにもう一つ、「意味を楽しむ jouis-sens ジュイサンス」が知られている。

*3:L'inconscient est structuré comme un langage.」(ラカン