『「ニート」って言うな! (光文社新書)』内藤パートより

「教育の職業的意義」の向上を徹底して訴えた本田パートに対し、内藤朝雄氏は次のように主張する。

 全体主義とは、教育が社会を埋め尽くす事態をいうのではないでしょうか。(p.114)

 提供されるべきは、教育ではなく、ライフチャンス(とセーフティ・ネット)なのです。(p.215)

私は《教育インフラ》をも「ライフチャンスとセーフティ・ネット」の一環と考えており、本田由紀氏を支持するのも、そうした理由からなのだが・・・。
「個人に帰責するのではなく制度設計を」という内藤氏の趣旨には心から賛同できるが、「ライフチャンスとセーフティ・ネット」*1が具体的にどのような構想であるかが分かりにくい。



*1:たとえば私が「地域通貨」に注目した(『ひきこもり文化論』p.169-175)のは、まさにそうした観点からだった。

疑問の焦点

 さて、これまで述べてきたリベラリズムの主張は、なぜか「きずなをバラバラにするものだ」といった誤解を受けやすいものです。
 こういう誤解は、「きずな」なるものを単数で、しかも宿命的なものとしてイメージすることから来ています。「たとえ屈従的なきずな(単数)であっても、それが現に生きられているかぎり、まったくきずな(単数)が存在しないよりはましだ。なぜならば、自己はきずな(単数)によって位置ある自己として成立し、きずな(単数)がなくなれば、人は屈従状態よりもおそろしい真空状態(無)を生きることになるからだ。人は砂粒として無であるよりは、むしろ同胞と共に奴隷であることのほうを選ぶ」というわけです。
 このような考え方は事実に反します。確かに自己が何らかのきずなによって支えられている、つまり自己ときずなはセットになって存在していることは確かですが、そのきずなと自己のセットを単数で考えるのは誤りです。さまざまな生活状態で、多種多様なタイプのきずなと自己のセット(複数)が生態学的にせめぎあっているのが、実際の姿です。そしてあるタイプのきずなと自己のセットが衰退することは、別のタイプのきずなと自己のセットが繁茂することを意味します。精神病でもない限りは、きずなと自己のセットそのものが失われること(真空状態)などありえません。(p.209-210)

精神病でもないのに、「きずなと自己のセットそのものが失われる」のが「社会的ひきこもり」といえる。 ▼内藤氏の議論は、「差別的言説がなくなってもどうにもならない層」については、考慮に入っていないように感じる*1
これは、以前に内藤氏の「お前もニートだ」を読んだときの違和感でもある。 内藤氏は「トライやる・ウィーク」を「強制労働」になぞらえるのだが、「ひきこもり」のような極限的なデタッチメントの顛末から遡って考えると、それも「制度的に保障されたアクセス・チャンス」として、「動機付けを生む出会いの一つになり得るかもしれない」と思うのだが・・・。【「強制はいけない」というなら、そもそも幼年期の「教育」は「強制」でしかあり得ないのではないか。】



*1:あるいは、ご自分のミッションをそこに限定されている、ということか。

「非社会」と精神主義

 不安を煽るようなVTRの後で、「それではどうしたらよいか」というトピックに入ると、発言者たちは自分の「いっしょうけんめい」を披露します。制作側は彼らの語りに続けて、美談エピソードをはめ込みます。そして、この傑出した人たちのように「いっしょうけんめい」子どもたちに接すれば事態はよくなる、というお手本のメッセージが放たれます。(p.148-9)

「気合」「一生懸命」といったイマジネールなロジック(想像的篭絡)は、「非社会」系の当事者周辺では宿痾(しゅくあ)のようなものだと思う。これについては、原理的に再考察する必要を感じている。▼社会関係を維持しようとするときに、私自身がすぐにこうした陥穽に落ち込むのだ・・・。



「問題の支配」=「論者の支配」?

 「他の人々を支配しようという欲求は、自己の部分を支配しようとするゆがんだ欲動として、ある程度説明できるだろう。他の人びとの中にこれらの部分が過剰に投影されると、投影された部分はその人びとを支配することによってのみ支配されうる」(『メラニー・クライン著作集4 妄想的・分裂的世界誠信書房、17項)*1

内藤氏はこのクラインの一節を、「ニート叩きをしている人たち」への分析として提出している。それに「なるほど」と賛同した上で私が思い出したのは、まったく別の問題だった。 つまり、ひきこもりの当事者・親御さん・支援者のサイドから繰り返し私に突きつけられる、「議論をやめろ」というプレッシャー・・・。▼これは、「上山も俺たちを無理やり社会復帰させようとしているんだろう」という苦情なのか(それならば内藤氏と同じ主張で頷ける)、それとも、問題に固執して論じようとする人間を支配すれば、問題そのものを支配できたように感じるからなのか・・・。*2



*1:「ニート」って言うな! (光文社新書)』p.173より孫引き

*2:重要なのは、議論が「批判」されるのではなく、論じようとする営み自身が「否定」されることだと思う(「批判」ならいいに決まってる)。 これはもちろん、現実に私が続けていけるかどうかとは別の問題だ。