『「ニート」って言うな! (光文社新書)』本田パート、p.81 「図c」

これは、以前当blogで扱った「何度脱落しても、自由に再復帰できる社会*1というモチーフを、教育との関係で図式化したものだと思う。 ▼正規雇用非正規雇用の「移動障壁の撤廃」という面からも、新卒以外の採用を含む「年齢差別の撤廃」という面からも、ぜひ支持したい。
気になるのは、以下のような諸点。【批判というよりはジレンマ】



*1:タイトル案も募集しました。が、決めるにいたらず・・・

「働こうと思えば働ける」という制度的環境整備と、「働かなくても蔑視されない」という規範的環境整備

「教育の職業的意義」(本田由紀氏)を高め、制度的排除の撤廃へ向けた合理的努力を推進することは、ぜひとも必要だ。しかしそれは同時に、「職業的に社会参加すべきである」という規範のための環境を整備することでもある。▼たとえば「男女共同参画社会」は、それ自体として素晴らしいしぜひ推進すべきだと思うが、同時にそれは、「女でさえ働く時代に、男のくせに働いていない」という蔑視をも強め得る。「誰もが参加できる環境を作る」ことは、制度的排除を解消する代わりに、不参加への糾弾を強め得る。【「みんなが競争に参加できるように」という制度整備は、「待ち組」という思想ともマッチする。*1】 ▼何度も繰り返すが、「働かなければ生きていけない」という金銭上の要請を満たすための環境整備は絶対に必要だが、そのことと、「人間は働く意欲を持つ義務がある」という規範上の要請とは、分けて考えなければならない。

 「女が参戦しようとする動きが、降りたがっている男を降りさせない」みたいなやりきれない事情がある。フェミニズムネオリベラリズムが、ともに「働けイデオロギーになっていて、「降りる(参加できない)」人間を蔑視的に二重排除する、という話です。*2

 最終的(理想的)*3には、「誰にも≪参加の権利≫と≪降りる権利≫が同時にある」と言うべきなのでは。

    • 労働・結婚・専業主婦・出産――「する/しない」
        • → 【「参加の権利」と「降りる権利」の両方を】
    • 「参加したいのにできない」 「降りたいのに降りられない」
        • → 【いずれも「できる」ための制度・支援を】

「ニート」って言うな! (光文社新書)』本田パートは、「就労しようと思っても、制度的・構造的理由によってできない」という若年就労の問題点を強調するため、「無業者のすべてに就労意欲がないわけではない」というのだが――それ自体は事実だし、重要な強調だと思う――、その結果、(おそらくは意図せずに)「働く意欲を持つのは当然である」という規範意識を追認している。それは結果的に、本田氏の言う「不活発層」への蔑視を強化しかねない【→「ペット以下」】。
「履歴書の空白」が「ひきこもり」や長期無業者にとって鬼門であるのは、「一瞬たりとも就労や社会参加から離脱してはならない」という規範ゆえだと言え、それが「専門的能力の有無」とは別のところで、再雇用を強く阻んでいる。▼年齢や状況を問わない「教育の職業的意義」を充実させることは必須だが、それとともに、「働かなくてもかまわない」*4という規範意識も、個人の(再)就労にとって、重要な要素であるはずだ。



*1:「評価は正負逆なのでしょうけれど、本田先生の文章には猪口大臣の「待ち組」論等と根を同じくするニート観があるように思えてならないのです」(bewaad氏

*2:下と2つ、「かしましチャット大会―バックラッシュとは何か?」(id:seijotcp)より。

*3:「それ(統整的理念)は将来の「無限遠点」にあり、実現されることはない。だが、この理念(超越論的仮象)は、たえず現在あるものを批判しそこに導く「統整的」な機能を果たす」(柄谷行人埴谷雄高とカント」)

*4:「働かないこと」は、「家族への迷惑」であり得る。だから、全体主義的な規範意識の強要において「ひきこもりを養い続けろ」と命令できるものでもない。→《交渉

「笑顔」か「就労」か――《動機付け》について

人間力」への抵抗など、本田由紀氏は「若者の心に触ってはならない」という一貫した姿勢を持っておられ、このことをまず最大限に尊重・支持したい。だがこれは逆に言えば、ひきこもり系の就労問題において最も難しいとされる《動機付け》――教育・雇用の機会増大だけではケアしきれない心理的な要素――が、不問になっていることでもある。▼本田氏は、みずからのミッションを制度的環境整備に限定しておられる(ように見える)ことから、こうしたご姿勢は役割分担として当然とも思えるが、「動機付け」を不問にすることによって、逆に「動機付けできない層」については、あやうい発言もしている(p.58)。

 「ニート」の中で、納得できる仕事さえあれば働きたいと考えている人たち(「非求職型」)に対して、「ひきこもり」の人たちに対するものと同種の対策――「若者自立支援塾」でうたわれている「勤労観の醸成」など――がなされることは不適切です。

動機付けがなされていない層に対しては、やはり「勤労観の醸成」が必要である、と・・・?▼いや、これも説明展開上の「言葉のあや」だろう*1。 「動機付けできない層」への本田氏の案は、以下の部分にまとめられている(p.66、強調は引用者)*2

 すでに予防という段階をすぎて、「負の連鎖」の深い部分に入り込んでしまった若者に対しては、矯正ではなく力づけるための手厚い支援が必要です。彼らに対しては、就労と直結させるような施策ではなく、もっと根底からの自己回復を手助けするような取り組みが必要になってくると思われます。
 たとえばヨーロッパでは、アート制作などの活動を通じて自己表現できる場を設けることが、このような層を元気付けるために有効であるという報告もあります。軍隊を思わせる規律訓練ではなく、失われていた笑顔を引き出すような方向でのじっくりした対応が必要だろうと思います。

ここで目指されていることが、「笑顔を引き出すような方向」に限定されるなら、その指針自体は無条件に肯定されるべきだ。▼微妙なのは、そのように元気付ける=「動機付ける」という事業と、「就労させるべきである」という規範意識との関係だ。――そもそも両者を分けた形において、予算のための政治的説得は可能だろうか。
これについては、継続的に項を改め、今後の課題としたい。



*1:それどころか、政策決定のプロセスにおいては、本田氏のような説得パフォーマンスは是非とも必要だと思われる。▼二枚舌・三枚舌は常に必要だ。

*2:本田氏の描かれているアイデア自体は、選択肢の一つとして重要だと思う。

宮崎哲弥氏:「ミヤザキ学習帳」(via id:yukihonda氏)

立ち読みしてきた。
四象限を描き、様々なニート関連本の主張を座標平面上に配置している。 縦軸を《ニートの原因》軸として「経済−精神(家庭)」、横軸を《ニートへの評価》軸として「ポジティヴ−ネガティヴ」*1
宮崎氏は以前、ニート対策として「ニート税をとるべきだ」と強硬に主張されていたのだが、今回の記事では攻撃的な主張はない(『中央公論』2月号での玄田有史氏との対談でも、攻撃的な印象はなかった)。▼そういえば、現在ではかなり過激な引きこもり擁護論に回っている斎藤環氏も、考え方には変遷があったらしい*2
ニート」「ひきこもり」については、誠実に考えようとするかぎり、最初からわかりやすい立論をすることは不可能なんだと思う(肯定論であれ否定論であれ)。 そもそも私自身、よくわからないまま考え続けている。
「ひきこもりは人間のクズだ」といちばん強烈に考えている人の一部は、実は現役で引きこもっている本人自身だったりする。▼そしてその規範意識が、ますます本人を硬直させる。



*1:記憶に基づいているので、厳密な言葉遣いは違っているかも

*2:講演会でご自分でそう話していた