「働こうと思えば働ける」という制度的環境整備と、「働かなくても蔑視されない」という規範的環境整備

「教育の職業的意義」(本田由紀氏)を高め、制度的排除の撤廃へ向けた合理的努力を推進することは、ぜひとも必要だ。しかしそれは同時に、「職業的に社会参加すべきである」という規範のための環境を整備することでもある。▼たとえば「男女共同参画社会」は、それ自体として素晴らしいしぜひ推進すべきだと思うが、同時にそれは、「女でさえ働く時代に、男のくせに働いていない」という蔑視をも強め得る。「誰もが参加できる環境を作る」ことは、制度的排除を解消する代わりに、不参加への糾弾を強め得る。【「みんなが競争に参加できるように」という制度整備は、「待ち組」という思想ともマッチする。*1】 ▼何度も繰り返すが、「働かなければ生きていけない」という金銭上の要請を満たすための環境整備は絶対に必要だが、そのことと、「人間は働く意欲を持つ義務がある」という規範上の要請とは、分けて考えなければならない。

 「女が参戦しようとする動きが、降りたがっている男を降りさせない」みたいなやりきれない事情がある。フェミニズムネオリベラリズムが、ともに「働けイデオロギーになっていて、「降りる(参加できない)」人間を蔑視的に二重排除する、という話です。*2

 最終的(理想的)*3には、「誰にも≪参加の権利≫と≪降りる権利≫が同時にある」と言うべきなのでは。

    • 労働・結婚・専業主婦・出産――「する/しない」
        • → 【「参加の権利」と「降りる権利」の両方を】
    • 「参加したいのにできない」 「降りたいのに降りられない」
        • → 【いずれも「できる」ための制度・支援を】

「ニート」って言うな! (光文社新書)』本田パートは、「就労しようと思っても、制度的・構造的理由によってできない」という若年就労の問題点を強調するため、「無業者のすべてに就労意欲がないわけではない」というのだが――それ自体は事実だし、重要な強調だと思う――、その結果、(おそらくは意図せずに)「働く意欲を持つのは当然である」という規範意識を追認している。それは結果的に、本田氏の言う「不活発層」への蔑視を強化しかねない【→「ペット以下」】。
「履歴書の空白」が「ひきこもり」や長期無業者にとって鬼門であるのは、「一瞬たりとも就労や社会参加から離脱してはならない」という規範ゆえだと言え、それが「専門的能力の有無」とは別のところで、再雇用を強く阻んでいる。▼年齢や状況を問わない「教育の職業的意義」を充実させることは必須だが、それとともに、「働かなくてもかまわない」*4という規範意識も、個人の(再)就労にとって、重要な要素であるはずだ。



*1:「評価は正負逆なのでしょうけれど、本田先生の文章には猪口大臣の「待ち組」論等と根を同じくするニート観があるように思えてならないのです」(bewaad氏

*2:下と2つ、「かしましチャット大会―バックラッシュとは何か?」(id:seijotcp)より。

*3:「それ(統整的理念)は将来の「無限遠点」にあり、実現されることはない。だが、この理念(超越論的仮象)は、たえず現在あるものを批判しそこに導く「統整的」な機能を果たす」(柄谷行人埴谷雄高とカント」)

*4:「働かないこと」は、「家族への迷惑」であり得る。だから、全体主義的な規範意識の強要において「ひきこもりを養い続けろ」と命令できるものでもない。→《交渉