19日に知人たちとした議論、それに20日に三脇康生氏と電話で交わした議論が非常に重要に思えたので、ここに簡単にレポートしておく。提起された論点のメモと、私の考えを少し。 花粉症と風邪で目かゆいし喉痛いし頭ボーっとしてる。 げほごほ。
「働け!」 → いや「コミュニケーション重視」 → やっぱ「とにかく現場へ」
これまでの良心的・民主的ひきこもり支援においては、「働け!」という暴力的説教への抵抗という意味もあり、「まずは(支援施設などで)コミュニケーション能力を身につけ、それから就労へ」という、2段階の道筋が重視された。拙著にもこの記述がある*1。
しかし、就労には必ずしも(「分かり合う」という意味での)「コミュニケーション能力」は必要ない。あるいは、支援関係や仲間内関係において経験される「コミュニケーション」と、仕事において必要な言説能力は同じではない。仕事においては、「分かり合うコミュニケーション」ができなくても、「打ち合わせ」や「交渉」が出来ればいい、というかそっちの方が重要。
玄田有史氏は横浜イベント時、「コミュニケーション能力というのは、相手の言うことが分からなくても『ええ、ええ、そうですね、ええ』とうなずける能力のことだ」と言って会場の笑いを取っていたが、これは実は、「就労に求められるとされるコミュニケーション能力のハードルを下げる」という意味があるとも言える。 → 「コミュニケーションができなければ!」とノルマ的に考えすぎて、かえって何もできなくなっている当事者への助言として意味があるのではないか。 ▼「まずコミュニケーション、それから就労」というステップの作成が、かえって社会参加のハードルを高くしている現場の事情がある。
関西のある支援関係者は、「コミュニケーション能力については、『挨拶』が出来さえすればればいい、あとはとにかく実際に現場に入ってみること」と言っているらしいが、同じ趣旨だろう。
つまり、「甘えるな、働け!」という道徳的説教の問題ではなく、プラグマティックな支援方法論の問題として、「コミュニケーションなんて出来なくていいから、とにかく現場に入ってみな」という勧め*2。 入ってみれば、そこにはイレギュラーな出会いや≪驚き≫もあるかもしれない。
私自身、フリースペース的な“居場所”(およびそこでの「雑談」)が苦手で、しかし設定課題が明らかな「ミーティング」や「講演」なら元気にできる、と以前から不思議に感じていたのだが、今回もらった上記整理は、個人的に非常に納得できた。
「同調圧力」 ←→ 「打ち合わせ能力」
「コミュニケーションこそが重要」とする要請の抑圧性。
「分かり合う」ことなど出来るわけがないのに、「無言の信頼関係」が要求されるのはおかしい。
日本の学校や職場においては、「コミュニケーション能力がある」とは、あるいは「大人になる」とは、「同調圧力に屈することができる」ということではないか。それに同調することができない人間が、イジメの対象になったりしないか。あるいは自分がどうしても譲れない問題意識に固執していると、「話し合いのできない奴」「社会性がない」「コドモだ」「キチガイ」*1などと言われる。
本当に重要なのは、「仲良くする」「分かり合う」という意味での「コミュニケーション能力」ではなく、「トラブルに対処する」という意味での「打ち合わせ能力」などではないか。
*1:cf.「enfant terrible」
「譲歩するな」
「欲望を諦めるな」*1という場合、それは「じゃあ1日中ゲームばっかやってよ」なのか、それとも別の何かなのか。僕は後者の意味でしか興味がない。
ひきこもり当事者が現場の変革要因であるとしたら、本人なりの「譲歩しない」が、地に足のついた話になるしかない。「地に足のつきすぎた」、つまり現状追認しかできない迎合主義の人たちにまみれて、しかし机上の空論でしかないような理想主義でもない、ビジョンを口にしつつもリアルであり、かつリアルでありつつも単なる順応主義ではない。そういうきわどい要因を生きられなければどうしようもない。というか「譲歩するな」は快感原則ではなく死の欲動に関わる。
ていうかなんでいきなり精神分析。
当事者の方向性
「当事者が発言する」ことについての、いくつかの問題。
ひきこもり状態を経験した人間が、「(上山のように)当事者発言を試みる、そこに固執する」ことで、かえってその当事者(経験者)の人生を停滞させるのではないか。そんなことをするよりも、ひきこもりなどという人生経験はいっさい忘れて、あるいは「なかったこと」にして、知らん顔でフツウの就労を目指す方が、本人の可能性が広がるのではないか。
これについては、「人による」としか言いようがないのではないか。
私は引きこもりという問題に取り組むことを通じて人や社会との回路ができたが、もちろんこういうスタイルが万人向けというわけではない、というか極端にレアなケースかもしれない。向き不向きがある。「ひきこもり」などという言葉もテーマも忘れて、普通に就職活動して、普通に働く――そのほうが向いている人がいても当たり前。
僕としては、独自の接続ルートや回路を生み出していく仕方しかやれない気がしている(少なくとも現時点では)。 その活動を通じての「On the Job Training」をやってきたと言える。
弱者たち
- 何も活動できない当事者は、私に「俺の代わりに戦ってくれ」と言ってくる。
- 何らかの願望があるなら、君は君で自分の戦いをやってくれ。一方的に私に押しつけるな。
- 少し活動している当事者は、私に「お前のせいで俺の主張が抑圧される」と言ってくる。
- 君がその件で評価されないのは、少なくともその件に関しては成果を作れていないからでしょう。君が私以上に面白い議論を提出できれば、私以上に評価される。人のせいにするな。
いずれも、弱者同士の無惨なつばぜり合い。かかわりたくない。
自分のバトルに邁進すべし。
悩み方
どんな仕事であれ、トラブルのない仕事はない。だとすれば、「どんな仕事につくのか」という選択は、「どんなトラブルを生きるのか」という選択だ。
「順応せねば」とか「生き甲斐は?」などと考えるより、そう悩んだ方がはっきり効率的だし、元気が出る。
「慣れる」の功罪
「慣れる」というだけなら、「まぁこのままでいいじゃないか」という現状追認(肯定)の順応主義が否定できない。同調圧力への屈服。 「これではまずいのではないか?」と思い始めた途端、周囲の世界との不協和音が始まり、生きづらくなる。雇用に絡んだ恫喝が始まる。 それでも続けざるを得ない苦情申し立ては、最初は心身症のように始まるかもしれないし、そもそも本人にも自覚されないかもしれない。しかしその違和感は、放置すべきなのか? このあたりに、倫理的要請の出自がある。
既得権益世界に内部化されて生きるためには、「これではまずいのではないか」といった疑問符には、気付かなかったことにする方がよい。ところが、≪脱落≫した途端、「考えざるを得なくなる」。思考は心身症のように始まる。
駄洒落めいて言えば、「いい加減」は、「良い加減」でもあるし、「いいかげんな・・・」ということでもある。どちらの問題意識も必要。そのバランスというか、緊張感が難しい。 ▼何に関してはルーズでよく、何に関しては譲歩してはならないのか。
去勢2態
ひきこもり状態については、(フロイトの精神分析を参照しつつ)「去勢されていない」という言い方がされることがある。
去勢は象徴化に関わる*1が、「欲望を諦めない」という形での去勢なのか、それとも「同調圧力に屈する*2」という形での去勢なのか。日本の職場では後者(「慣れる」*3)が強要される。また、「売れ残った商品は商品ですらない」という議論を「個人の社会化」と重ね合わせるなら、「去勢されない個人は人間ですらない」、あるいは、「社会化に失敗した個体はニンゲンですらない」ということになるか。*4
私は「厳密な言説努力」に固執しその実践を試みているが、その作業への没頭において、つまり言葉を厳密に現実的に使おうとする努力において、経済的成功とはひとまず関係なく、すでに去勢されているのだ、と言われたことがある。
「超越論的な場」――公共圏と排除*10
- フランスでは、(生活空間や公共圏に)すでにして超越論的な場が開かれているから、いきなり想像界から象徴界*1に向かえる。
- 日本では、まず同調集団から(心身症のようにして)≪はじかれ≫て、そこで初めて「思考=超越論的な場」が開かれ、分析の consistencyが起動かつ駆動され、そこでようやく「想像界から象徴界へ」の努力が為される。つまり、努力が二段階になっているから、非常にしんどい。
*1:こちらの「*5」参照。 興味のある方は → google:現実界 象徴界 想像界
「≪現在≫の忘却」 = 「自己言及の拒否」
鎌田哲哉氏による「LEFT ALONE」批判 *1 には、「≪現在≫が忘却され隠蔽されている」(大意)という議論があるが、これはそのまま「自己言及の拒否」に関する話ではないか。
現在の自己を忘却し、ひたすら他罰的に振る舞うこと。それへの怒り。自己反省。
*1:via『成城トランスカレッジ!』
「現場=当事者」主義
「思想家の○○がどう言っていたか」ではなく、「自分の現場でどう頑張るか」ということ。
現場意識を持てないフェティッシュな思想談義では、どうしようもない。
たとえば私は、「文学について」「経済について」「音楽について」など、各トピックそのものを抽象的に論じようとしても、全く無能。まったく言葉が出てこない。固執すべき論点もないし、揉め事が起こっていても「どっちでもいいよ」としか思わない。 しかし、こと「ひきこもり」に関してのみは、いい加減な議論をしているとどうしても我慢ならない。許せない。その「許せない」、「放置できない」の部分にのみ、かろうじて私を現世につなぎとめる能動性の機能があるような気がする。もう私はこの世に関わりたいと思っていないのだが、いい加減な引きこもり論だけは許せない。このままいいようにやられたままでは、「死んでも死にきれない」。なんというか、この言葉を言い切ってしまえることのうれしさと、でも死にたい、というきわどさとの、綱渡り。
現場感覚を持てない議論は×。
「評価軸の複数化」と「競争原理」の必要
評価軸を能う限り複数化して、その各軸においては優勝劣敗の競争原理を導入する必要がある。
以前あるひとが、「優秀な人を見るとわくわくする」と言っていたが、「できない人」ばかりでは、転移が起きない。すごくたくさんの評価軸があった上で、そのそれぞれの軸において≪優秀な人≫が現れてくれなければ、どうしようもない。
転移を起動し駆動してくれる≪優秀な人≫の登場は、苦痛にあえぐ人々にとっての臨床上の要請ですらある。 「この人、すごい!」と思えることでどれほど救われるか。
もちろん、戦略上の要請もある。具体的に戦果を上げねばならない局面で、戦力にならない人間ばかりではどうしようもない。
カネ(今後の焦点)
ひきこもり支援業界における「顧客×支援者」のトラブルは、どうやらそのほとんどがカネ絡みのようだ。私自身の体験も含め。*1
なのに、「ひきこもり支援とカネ」の関係を、まだほとんど誰も論じていない。
おかしい。
「カネ」をめぐる支援業界の難しい事情について、どうして当事者が論じないのか。
この blog ではまったく報告していないが、私は「1時間5000円」での面接相談もお引き受けしている*2。この料金設定について、「安い!」という人と、「・・・・・」という人と、そもそも「お金取ってるんですか?!」と詰め寄る人とがいる。
カネをめぐる議論ぬきの支援論は、もはやむなしい。
たとえば。
「事務所を借りての支援活動で、スタッフを3人雇って、自分を含め全員に月15万円の給料を出す」とする。15万×4=60万円、これに事務所賃貸料や光熱費、その他諸経費いれたら、年間経費があっという間に1000万円を超えるの、わかりますか。「相談料を取ってはいけない」と言っているあなた、行政からの援助がない状況で、どうしろと? 財源の対案を示してください。
しかし。
当然ながら、高額ではサービス受益者が富裕層に限られること、あるいは「継続できない」といった問題が生じる。
ひきこもり当事者的には、「自分の問題のせいで、親が何十万円も何百万円も払うことになってる」という話が耐えられない傾向があるのも事実。多くの当事者は、具体的にカネの話をすることを極端に嫌う。
とにかく。
ここに焦点がある。