「強制的自発」

「責任としての自発性」という話は、「愛国心」をめぐる一連の議論を思い出させる。
「国を愛するのは当然だ(自発的に愛国心を抱く責任がある)」
愛国心を持たない人間は義務を果たしていない」

「愛国」に関して、三島由紀夫丸山真男の言説の流れから愛国には「強制」と「内発」があると語っていた。 三島由紀夫が徴兵制や愛国の義務化に徹底して反対していた例や、丸山真男の愛国が強制されれば必ずしも愛国者でないものが人に認められたいがため愛国的に振舞うことを挙げていた例を挙げ解説。 愛国の強制などこれほど信用の置けないものはないと。*1 【三島由紀夫が兵役は「義務」ではなく「権利」であると言っていたのもこの図式で理解できる。*2



「権利」は自発性に関わる。【降りる権利と参加の権利
「義務」は自発性との関係にある強制。 自発性のないところにある義務は「拷問」?
ひきこもり・ニートにおいて問題になっているのは「課題脱落」、すなわち自発性の喪失。





*1:以上、こちらより。

*2:id:kwkt さんによる注

≪自発≫: 自然(じねん)と人工

「愛する責任」「自発性をもつ責任」 → 自然(じねん)的な愛や自発のないところでの人工的責任とは何か。
親への愛や社会(国家)への自発性を持てない場合、「愛(自発性)を持て!」(愛や自発性の強制)ではなく、すでに機能しているはずの自発性への作用機序を構想すべきではないか。 「すでに機能しているはずの、コッソリ隠しているはずの自発性すら認めないのは卑怯だ」。 ex.誰かへの愛情、「生きていきたい」「楽に死にたい」「許せない」など。


支援者の一部は(そして部分的には私も)、次のように言う : 「実際に対人関係ができ、相応に仕事が順調に運んでくれば、いつの間にか『殺してやる』『死にたい』などとは言わなくなる」。 しかしそれだけ言っていると、「環境を変える」という努力要因が無視される。 実際に当事者が「参加経験を積む」ことによる訓練は必要だが、「労働環境を改善する」努力がなくなっていいわけはない。 【自発性の醸成環境という課題】
そしてさらに深刻な問題は残る。 「参加体験にすら出てこない人」は、どうすればいいか。 「参加してみればいろいろある」かもしれない。 しかしその参加に向けてすら能動性(自発性)を発揮してくれないのであれば、少なくともその「参加」の部分だけは、強制するしかない。 「参加したあと」は強制できないにしても。


「神様が守ってくれた」「守護霊が・・・」といった理由で家を出た事例も聞いた。 私は思想としては同意できないが、理由はどうあれ客観的状態としては「ひきこもり」を脱している。 【自発性の起動因と、思想選択】





自発性再生事業

「自由放任では社会(国)が破綻するのだから、自発性を踏みにじってでも結婚や労働を義務化すべきだ」は、本当に継続可能な指針と言えるのか。 【自発参加の要因を伴わない義務】
→ 過剰な義務の強制は、結果的に全体を破綻に導いていないか。 ▼問い : 「徹底した義務の強制は、いつの間にか自発性の温床になる」という説は、すでに教育学や社会思想で論じられているのか?


ニート・ひきこもりに「労働を強要する」のは一部で根強い人気を誇る意見だが、「性愛を強要する」のは政策論としては無理があるから*1、「性愛脱落者を差別する」ことを、施策のように機能させるということだろうか。 しかし、ホームレス差別は、ホームレス減少化に役立っているか?
あるいは、宮崎哲弥氏がニート税について語ったように、「恋愛・婚姻につかず、就活動すらしない者」(Not in Marriage, Love, or?*2)には重い税をかけ、施策として就愛を促すか。
→ 「脱落者を追い詰める」というだけでは、社会への再包摂施策として現実味がないのではないか。 【「本人にすら気付かれてはいないが、すでに機能しているはずの無意識的自発性」をターゲットにできないか。】

「奉仕」の義務化

 活動内容はボランティアと同じだが、「生徒が自発的に行うのではないため『奉仕』と呼ぶことにした」としている。

volunteer”というと「善意」「青臭さ」「自分探し」などが強調されがちだが、最も核心的な点は(語義から言って)「自発的」ということのはず。 「そんな行動は自分探しだ」と言って馬鹿にするより前に、そこに実際に「自発性」が起動していることのほうに注意すべきではないか。 といっても手放しで賞賛するというのではなく、「自発性」の起動機序に注意し、これが社会的に重要な因子であることを考えるべきではないか。





*1:シミュレーション的にでも検討する価値はあると思うのだが。

*2:『loveless zero』さん : 「Not in Love, Sexperienced, or Talking。恋愛してない、経験なし、(異性愛者の場合)異性と話すこともない」。 あるいは「非婚化と『雇用のミスマッチ』というのは、根っこが同じ気がします」。

「能動のつもりが受動」

「自発性」は、社会を構成する必須因子として恣意的に利用されている、という妄想?

「何かを考えてきたつもりで実は考えさせられてきただけではないのか」*1
鎌田の批評においては、この種の「能動のつもりが受動」への恐れが強迫観念的につきまとっている。
斎藤環氏 『文学の徴候』 p.207、鎌田哲哉氏について】






*1:知里真志保の闘争」群像1999年4月号

≪契約≫への誘致

自発性の契機を含む参加、すなわち≪契約≫*1という要因が重要。*2
生活のの継続的運営のためには、自発性鼓舞が必要。 → 強制的要因(義務)の設定は、「自発性を生み出すものに向けての強制」というレベルに留める必要がないか。 強制されたのではない、本来的=自然的=自発的な関係欲の起動。 【この辺は、「景気対策」の話に重なる?】
参加意志(契約意志)のない者を「魅力的なもので魅惑する」と同時に、「自発性は参加以後に事後的に発生する」*3ことが期待できるのであれば、≪とりあえずの参加≫までを義務化すべきか。 → しかしそこでは、「結局は就労(愛)してほしい」がゴールとして設定されていることが当事者に見透かされる。 やはり「権利」としての「就労(愛)しなくてもいい」が措定された上で、「魅惑する」要因が不可欠ではないか。





*1:「社会参加は契約である」という発想は、読者の方(Mさん)からのメールで得ました。 ルソーの『社会契約論 (岩波文庫)』とかの話になるんでしょうか。 この辺の基礎教養が私には欠けています。

*2:診療契約」の話参照。

*3:参照 : 樋口明彦氏 「事後的フィクションとしての就労意欲

「迷惑」 → 「棲み分け」?

未就労や未就愛が周囲の個人にとって「迷惑だ」とすれば、これはやはり個人間の「契約」の問題として語れるだろうか*1
「就労も就愛もしていない人間には社会性がない」が迷惑だとすれば、それは「就労・就愛」そのものが問題なのではなく、「対人関係レベルでスキルをつけろ」というだけ。 → 就労や就愛は、それ自体として目的化しているというよりは、「訓練機会」として要請されているのではないか。 「仕事も恋愛もしていない奴は人格的にウザイことが多いから、訓練しろ」というような。


接触義務がなければお互いに無視すればいい。要するに「棲み分け」。それができないから困るのだが・・・・。【ひきこもり・ニートは、契約当事者として非力すぎる。】

  • 家族や第三者が、引きこもり・ニート当事者を「迷惑だ」という場合、どのレベルでの「迷惑」か。
    • (1)経済
    • (2)道徳
    • (3)暴力・犯罪
    • (4)世間体








*1:家族との関係に「契約」を導入してはどうか、という斎藤環氏 『ひきこもり文化論』 p.164 の提案を思い出す。