公的援助の周辺

 昨日コメント欄のid:kagami氏の書き込みに対するレスポンス。ひきこもりは「働けない」のか「働かない」のか、という議論から、ひきこもりへの公的資金援助の話になった。(オブラートに包んでいても仕方がないので、かなりハッキリ言っています。一つの視点をはっきり表明してくださったkagami氏に感謝します。)

  • 「ひきこもりは苦しんでいるか」
    • 私は苦しんでいない人のことは「引きこもり」とは呼ばないので、最初から考察の対象外です。だから「苦しんでいない引きこもりもいる」というのは形容矛盾。単なるディレッタンティズムに「ひきこもり」という標語のもとに関わる気はありません。だって「大きなお世話」ですから(苦しんでいる人にさえそう言われたりするぐらいです)。


  • 「ひきこもりの人を精神の病として特別扱いするのではなく、一人の立派な権利ある大人として対等に対話するべきだと思うのです。精神医学は極めて恣意的に権力を乱用し、人々を苦しめる為の医学として発展してきたのは事実であり、油断ならない、警戒すべき存在ですし。」
    • ひきこもりを「富裕階級の病」と表現したのはkagamiさんですよ。それと、昨日「nanasi」さんが指摘していますが、「病は悪ではないが不便や欠損ではありうるのであり、権力によるレッテルとしてのみ病を捉えるのは一般化のし過ぎ」。まさにそうだと思います。レッテルによる差別云々ではなく、「苦しんでいる人がたくさんいる」という事実を名指さなければなりません。


  • 「対等視」ゆえに・・・
    • 私とは逆に、kagamiさんには引きこもり当事者が「苦しんでいる」という認識が欠けすぎています。「家にこもって読書やゲームにふける」といった快楽生活のイメージで「ひきこもり」を語っている(繰り返しますが私にとってそれは「ひきこもり」ではありません)。それはご自分の身に置きかえて想像されているわけで、はっきり言えば「嫉妬」の精神構造ではないか。「楽な生活をして、そのうえ彼らは密かに楽しんでいる」。そこから、「彼らはこのように楽しむに違いない」という妄想に満ちた非難も始まります(→「ひきこもりを生活保護以上にプラスαで支援することになった場合」云々という現実味に乏しい仮定をしての危惧がこれに当たります)。


  • 斎藤環氏のような権力志向が強く、精神医学を力の手段、飴(福祉支出)と鞭(拘禁)として権力的に利用するすべを知る人間は、民主主義を危険にさらす可能性として最も警戒せねばならないでしょう」
    • 斎藤氏が「権力志向が強い」というのはどういう理由でしょうか。彼がひきこもりについてドミナントに語るとしても、それはそういう啓蒙活動が苦しんでいる当事者のためになる、という信念に基づいてのものだと思います。省庁関係の仕事もしているようですが同断では。kagamiさんには「引きこもりは苦しんでいる」という認識が欠けているので「精神科医」的な仕事が悪に見えるのでしょう(精神医学が「異常者」排除の視線として機能しがちだとしても、「苦しんでいる人がいる」という事実は消せません)。彼の臨床実践を「民主主義を危険にさらす」ものだと言うのですが、彼が扱うのは自主的に通院してきた人間だけですよ? 最低限、彼の実践方針については通暁していますか? 苦しんでいる人間への具体的な代換案は示せますか? 
    • 私自身は医師ではありませんし、彼のやり方を踏襲すればいいとは思っていませんが(いわば代換案をこの日記で執拗に考えているわけです)、批判するにしてもいったんは通過すべき議論をされていると思っています。


「俺は働く気ないから、社会保障で一生暮らそう」?

 「ひきこもりの奴らは公的援助を不正受給されるんじゃないか?」という危機意識があるみたいです。せっかくなので、ネットでいろいろ調べてみました。受給資格や援助の実際についてです。

  • 生活保護ってなぁに?
    • ひとまずここがいちばん簡潔で分かりやすいでしょう。これで見るかぎり、「ひきこもり」は生活保護の対象になりそうにありません。正直、絶望的です。


 というわけで、「ひきこもり」が公的援助を受けるのはたいへん難しそうなのですが、そもそも生活保護の受給をめぐっては様々なトラブルがあるようです。不正受給とか、逆にキツ過ぎる審査とか。

 たとえば母子家庭については、仕事をしている場合の平均収入額よりも生活保護額の方が高いとか・・・。これではまさに「仕事をする気にならない」。つまり「いい保護を受けられるんだったら仕事なんかしない」というのは「ひきこもり支援」云々というより「生活保護」全般に関わる問題であって、そういう意味で現在改定のための協議が進んでいるようです。

 繰り返しになりますが、「ひきこもりだけが不正受給の可能性がある」というのは、差別的な視線ではないでしょうか。保護すべきかどうかの判断が難しいのは「ひきこもり」に限った話ではないし、不正受給者が生活保護全体のイメージを損ねる、というのも、一般的な問題だと思います。
 というか今回調べてみてあらためて思ったのですが、生活保護を受ける環境というのは、正直耐えられない・・・。(たぶん、是々非々で臨機応変に対応するのが賢いのでしょうが・・・。)

「欲望」ではなく「葛藤」?

 先日から「欲望」をキーワードに考えていたのだが、むしろ「葛藤」という言葉を出した方がいい気がしてきた。コメント欄に書き込んでくれたmiyagiさんが言っていた「怒り」の問題もあるわけだし。
 「欲望」というのは、それが生む「葛藤」から考えるべきではないか。「葛藤」に取り組むことが大事だと思うし、どういう葛藤を生きるか、がその人の人生そのものなんだと思う。そして僕がどういう葛藤を感じるかは、自分の主体的選択だけの問題ではない。というか、ほとんど受動的だ。
 前から言っている「フィクション」云々の話も、各人の葛藤の様態として考えられないか。

動物的ひきこもり

 id:Ririka:20031011に、東浩紀氏の「動物化」に関連して、次のように述べられている。

 「動物化」は、社会の豊かさから来る「考えないこと」の「許容」から生まれているのだとおもう。ひきこもりはその「動物化」における一許容形態とみなすことができる。

 彼女はひきこもりを「本人の意思に反した」状態と考えているようなので、それが非常に苦しい葛藤に満ちた状態だということも前提にしていると思うが、たしかに引きこもりというのは客観的に言って「親に飼われた」状態だ。いや、人間は誰でも小さな子供のころに「飼われて」いるのだが、飼われたペットなりに、外の世界に少しずつ参加してゆく。ひきこもりの場合、種々の要因が重なってこの「参加」の能力を見失い、小屋の中から一歩も出られない犬のようになってゆく。頭の中には精一杯「人間的な」葛藤を抱えて。
 「不況が続いて貧乏人が増えればひきこもりは減る」という指摘にも、真実があるかもしれない。「経済的に困窮すれば解決する問題」でしかないのなら、ひきこもりに「取り組む」などバカバカしいことだ。死者が出ようがホームレスが増えようが、「ひきこもり」は減るのだ。・・・・それって、「解決」か? それは、「とにかくみんな苦しめばいい」という話でしかないのではないか? 少しでも「よりよく生きられる」ように「状況を改善しよう」という話が、どうして生まれない?(これは前にも書いた。)
 極論をすれば、ひきこもりで人が苦しもうが、その人に金がなくなって餓死しようが、他の人間には関係ない。
 当り前だが、苦しんでいる人を「抱え込む」ことなどできない。一人一人が勝手に動くのを待つだけだ。僕は僕で自分の葛藤を生きるしかない。 (付記:どうも「動物的」というのは、投げやりになる言葉だな・・・)

箴言

 ここの引用文が興味深くてリンク先に飛んだら、おもしろい言葉が。

 精神科医になるのは、阪神ファンになるようなものである。思いどおりにはならないが、その状況を楽しむことは出来るようにはなる。

 うーん・・・。
(医師の自殺率は一般より高く、なかでも精神科医が最高らしい。)

「こんなに苦しむなら、死んでしまったほうがマシ」

 id:kagamiさんとの対話を通じて考え直してみたのだが、(ひきこもり支援において)「苦しんでいる人だけを問題にする」という場合、当然「苦しんでいるのは家族だけ」というケースについても考えないといけないだろう・・・・(これはid:jouno氏が言っていたが)。本人は「金がなくなったら死ねばいい」とだけ考えていて、家族が困り果てている、とか。
 僕としては、「苦しんでいる家族」から相談を受けた場合は、「ご家族でよく議論してください」としか言えないんだと思う。対話の方法については斎藤環氏が『「ひきこもり」救出マニュアル』(ISBN:4569621147)で書いていたことを参考にしてもらうとか。
 僕に出来ることとしては、ご本人の欲望を刺激する、あるいは葛藤を刺激する、といったことを考えるより仕方がないんだと思う。


 生き方として、葛藤や欲望をなるだけ感じないように生きようとする、ということがあり得る。それが結果的に周囲を抑圧したりする。ここにおいてたぶん最も激烈な議論が交わされる。葛藤を回避しようとすればするほど、周囲との軋轢が増してゆく。
 葛藤や欲望に直面することがすべて「敗北」にしかつながらない、としたら、葛藤や欲望はもはや屈辱でしかない。
 自殺する人はよく「疲れた」と言って死んでゆく。自殺とは、葛藤に対する「最終解決」(ナチス)なんだろう。直面忌避による緩慢な死、としての餓死・・・。
 「苦痛に直面するぐらいなら死んだ方がマシ」、という隠されたつぶやきに方針転換を与えるのは、なんだろう? 人? 自然? ・・・・・
 「葛藤してでもいいから、あえて生き抜きたい」という願望は、それほど自明のものではないと思う。「こんなに苦しむなら、死んでしまったほうがマシ」というつぶやきは、もうどうしようもないのだろうか・・・・。
 必要なのは、わかりやすい具体的解決、なのか。

「偽ヒキ」もんだい

 http://d.hatena.ne.jp/hikilink/20031013#p4に、当日記での議論へのコメントがある。

 というわけで、id:kagamiさんの主張のポイントは、メンタルヘルスを認めない点にあると思うのですが、いかがでしょうか?

 「ひきこもり」をイコール「苦しんでいる」と見なすかどうか、という点で意見が分かれていたけれども、実はこれを巡っては少々やっかいな問題がある。
 「偽ヒキ」だ。
 2ちゃんねるのヒキ板で頻出するのだが、僕も「テレビに出ているようなヤシは偽ヒキ」などと書かれた。要するに、「あいつは本当には苦しんでいない」というわけだ。
 「あいつには真性ヒキの気持ちはわからない」ということなのだろうが、「苦しんでいないのは引きこもりじゃない」という僕の定義に問題あるとしたら、この「偽ヒキ」問題じゃないか。


 当然だが僕は当事者たちの「苦しくてしょうがない状況」を「苦しまなくてすむ状況」に変えていきたいわけで(それはひょっとすると「閉じこもっていても大丈夫」な環境作りかもしれない)、「苦しんでいる状態」に囲い込みたいわけじゃない。「苦痛」に焦点を当てるのは自分の努力のターゲットを明確にしたい、ということであって、偽ヒキ論争に首を突っ込みたいわけじゃない(冗談じゃない)。
 とりあえず、僕は自分のやりたいこと・出来ることをやって、苦痛除去に役立たなければ引き下がる。それ以上でも以下でもない。
 対象もプロセスであり、自分もプロセスであり、お互いの接触を通じてお互いに解放される。そういうプロセスの実現を目指しているのだけれども。(「ひきこもり」は可変的ターゲットの名前であって、静止画像的定義ではない。そこに関わることによってこちらも変化する。こちらが変化せずに相手だけ変えようとするのが暴力的介入ではないか。 → 斎藤環氏の「マニュアル」は、アプローチの前段階としての環境整備だ。要は、そのマニュアル「以後」だと思う。)
 ひとまず、僕自身は可能なかぎり元気に振る舞おうとしている。