動物的ひきこもり

 id:Ririka:20031011に、東浩紀氏の「動物化」に関連して、次のように述べられている。

 「動物化」は、社会の豊かさから来る「考えないこと」の「許容」から生まれているのだとおもう。ひきこもりはその「動物化」における一許容形態とみなすことができる。

 彼女はひきこもりを「本人の意思に反した」状態と考えているようなので、それが非常に苦しい葛藤に満ちた状態だということも前提にしていると思うが、たしかに引きこもりというのは客観的に言って「親に飼われた」状態だ。いや、人間は誰でも小さな子供のころに「飼われて」いるのだが、飼われたペットなりに、外の世界に少しずつ参加してゆく。ひきこもりの場合、種々の要因が重なってこの「参加」の能力を見失い、小屋の中から一歩も出られない犬のようになってゆく。頭の中には精一杯「人間的な」葛藤を抱えて。
 「不況が続いて貧乏人が増えればひきこもりは減る」という指摘にも、真実があるかもしれない。「経済的に困窮すれば解決する問題」でしかないのなら、ひきこもりに「取り組む」などバカバカしいことだ。死者が出ようがホームレスが増えようが、「ひきこもり」は減るのだ。・・・・それって、「解決」か? それは、「とにかくみんな苦しめばいい」という話でしかないのではないか? 少しでも「よりよく生きられる」ように「状況を改善しよう」という話が、どうして生まれない?(これは前にも書いた。)
 極論をすれば、ひきこもりで人が苦しもうが、その人に金がなくなって餓死しようが、他の人間には関係ない。
 当り前だが、苦しんでいる人を「抱え込む」ことなどできない。一人一人が勝手に動くのを待つだけだ。僕は僕で自分の葛藤を生きるしかない。 (付記:どうも「動物的」というのは、投げやりになる言葉だな・・・)