親子関係の非対称性

書籍『引きこもり狩り』への批判的問いとしての、「親がひきこもってしまったらどうするのか」への付記として。
ここで問題になっているのは、「権理上の親子の対等さ」だが、実は親子間では、その関係への入り方が対称的ではない。親は望んで子を設けるが、子は望んで生まれてきたのではない。 【芥川龍之介の小説『河童』では、河童の胎児は出産のときに「産まれたいか否か」*1を問われ、希望通りに中絶される。つまり、産まれるときに親との間で交渉関係があり、そこで本人が意思表示できるという設定になっている。そうであれば、「産まれてきたこと」にも本人の責任を問える。】


ひきこもりにおいては、味方は世界中で親しかいない。 だからそこに権理の話を持ち込むのは本当は自殺行為でもあるのだが、親密圏とはいえ公正さを期すためには、関係の中でのお互いの権理上の対称・非対称を検討する必要がある

    • 親: ある期待をもって設けた存在への義務
    • 子: 受け身で与えられ、養われた生によって発生する義務



親の側からすれば、「親は子を扶養してきたが、子は親を経済的には扶養していない」、そのことにおいて非対称であり、親が一方的に苦しんでいる。
「産んでくれてありがとう」は、それを語ろうとする現在が肯定できてはじめて湧いてくる感情であって、現在が肯定できなければ、「生まれてきたこと」は、被害感情にしかならない。(ひきこもっている状態は現在が絶望している。) ▼親の側は、生育においてたいへんな恩恵を与えているのに、その絶望に向けて子供を育てたことになってしまう。


子供を設け、育てるときには、結果的に子供が本人の生命を肯定することを期待してよいものだろうか。いくら育てても、子供が自分の生を否定し、「産まれたこと」「育てられたこと」に悪態をつくことがあるかもしれない。
ひきこもっている人の現状が、自分の現実を構成できない(引き受けねばならないという強迫観念ばかりがあって破綻している)以上、産まれたこと、育てられたことが、「引き受けられない被害」として体験されている。(親からすれば許せないし耐えられない。)


いつか読んだキリスト教の本で、「産まれてきた子供が、親を愛し返す。これこそがこの世の奇跡だ」という言葉があった。一方的に生を与えられた存在が、親と世界を愛し返す。――生まれてきたけれど、愛せないことだってあるかもしれない。 産んではみたけれど、愛せないということもあるかもしれない*2


子供を/世界を/労働を 「愛さなければならない」という命令形のむなしさと、生身の人間が負担して行なう労働への評価(愛)の公正さと。
自発的であるべきものが強制されるむなしさと、評価されるべき人が評価されない不公正と。
そういう原理的な部分で、ひきこもりを検証しなおすこと。







*1:「産まる」は、「産み落とされる」という意味で受身形につながる。

*2:虐待など