「権理」と「権利」

福沢諭吉学問のすすめ

 今、人と人との釣合を問えばこれを同等と言わざるを得ず。 但しその同等とは有様の等しきを言うに非ず、権理通義の等しきを言うなり。 (中略)
 即ちその権理通義とは、人々その命を重んじ、その身代所持の物を守りその面目名誉を大切にするの大義なり。 (中略)
 人たる者は、常に同位同等の趣意を忘るべからず。 人間世界に最も大切なることなり。 西洋の言葉にてこれを「レシプロシチ」(reciprocity 相互関係)または「エクウヲリチ」(equality 平等関係)と言う。



西部邁「権利」でなく「権理」を

 公益というものの持っているライト「正しい」理(ことわり)に沿うべく自分の行為を権(はか)ること、それが権理(ライト)である。 そういうものとしての権理は、(健全な)社会の全域に通用する正義であるべきだから、ふたたび諭吉にならっていえば「通義」でもある。



石田英敬「公共性」をめぐって

 「権利」とは書かずに、私は、福沢諭吉にならって、英語の Rights や フランス語の droits のより正確な訳語として「権理」と書くことを提唱しています。 「Rights」は決して「力」の「益(Interests)」のことではなく、「政治社会において、当然そうあってしかるべき能の(ことわり)」だからです。