≪「当事者主義」から「他者のリベラリズム」へ≫

メールによる内藤朝雄氏(id:suuuuhi)のご指摘から、「他者のリベラリズムというテーマを得る(ありがとうございます)。 あらためて氏のブログを見直してみると、以下のような記述が

わたしが関わってきたいじめ問題で例を出せば、いじめの被害者は、「みんながもっとおたがいとこころの距離を縮めておもいやりを持つようになればいじめはなくなる」と絶唱することがある。わたしは「ちがう」と言い放つ。被害者がそういう信念をもつことと、わたしが「ちがう」と言うことはまったく矛盾しない。両方ともそれぞれの主導性(個人がその人生において自己をその発動の中心点として自己の信念を生きる権利)が確保されていればよいのである。戦争で肉親を失った被害者の組織である遺族会が、当の戦争を引き起こした戦前の日本の体質を擁護・復活しようとするメッセージを発する組織であったことを考えてみよう。当事者崇拝をしていたら、右翼勢力の思うつぼである。大切なことは、遺族の主導性(個人がその人生において自己をその発動の中心点として自己の信念を生きる権利)を確保しつつ、さまざまな異なる他者の意見がぶつかりあえる、リベラルな言説のアリーナを確保することである。このあたりの、当事者主義から他者のリベラリズムへという論理は、このブログに載せた『不登校は終わらない』への書評論文を参照されたい。

読んでいたはずなのに、問題の構造が見えていなかった。


当該書評を探してみると、次の文章が見つかった。

内藤朝雄:「不当な労働分配構造こそ不登校問題に関し非難されるべき」(貴戸理恵著『不登校は終わらない』への書評)*1

 著者は、フリースクールと親の会のツテにより、15人の不登校経験者にインタビューを行った。この事例集がすばらしい。彼らは特殊なツテで接触した人々であるにもかかわらず、じつに多彩である。
 彼らは、不登校をめぐるさまざまな不利益に加えて、不登校を語ることを通して自己を語れ」という「物語を紡がせる強迫」に巻き込まれる。実際には当の本人にもよくわからないことが多い。さまざまな非当事者とのコミュニケーションにおいて、「再び学校に行けるように治療されるべき病者である」とか、「不登校を明るく選択した」といった自己物語を生きるよう促される。そしてしばしば「語らされた」物語とのズレに苦しむ
 自己を物語る要求に対して役を演じ分ける人もいる。ある不登校者は、シンポジウムや著作では、苦しんでいる他の不登校者のために「明るい選択」の物語を語る。しかし、私生活用の自己物語としては「ほんとかよ」と違和を感じる。著者は、東京シューレ的なフリースクール「『選択』の物語の解釈共同体」と呼んでいる。
 著者によれば「選択」の物語には、不登校による不利益をその「選択の結果」として個人的に引き受けざるをえなくさせる効果がある。
 筆者は「当事者学」の立場をとる。非当事者による距離のある分析や代表・代弁ではなく、「『〈当事者〉にとっての不登校』を明らかにすること」が本書の目的であるとする。〈当事者〉の立場から現在の不登校政策を批判し、今後を展望」しようとする。
 批判的な検討に入る前に、この本は読むに値すると断言しておく。紙幅の半分近くを占めるインタビューがあまりにもすばらしいのである。本書はインタビューが売りの本であり、その輝きはいかなる批判に対しても色あせない。
 以下、疑問点を述べる。
 筆者は15人の量的分布を根拠にして、不登校者は一般に○○の傾向があるほど○○であるといった学説や、不登校者の類型論を提出する。しかし量的研究の観点からは15人は代表性に欠けるし、人数も少なすぎる。類型を立てるにしても、例示による仮説構成的な研究になるはずだ。
 著者に限らず多くの自己決定批判論者は、選択肢構造が正当なものと不当なものを一緒くたにして、「選択の物語」の限界を批判する傾向がある。不当な選択肢構造に対する批判になるべきところが、「選択」や「自由」や「自己決定」の物語に対するシニカルな批判になってしまいがちである。もちろん選択肢構造が不当な場合は、緊急避難的な選択の自由はあるが、その結果の不利益を背負う責任はない(たとえば、ピストルを突きつけられてカネを出すか撃たれるか「自由に選択しろ」と脅された場合、選択の自由はあっても結果に対する責任はない)。この重要ポイントを看過して、もっぱら「選択の物語」によって個人が責任を背負わされると強調すると、個人の自己決定権そのものをシニカルに掘り崩しつつ、不当な選択肢構造を強いる仕組みから目を逸らしてしまいかねない。このことは本書のみならず、近ごろよく言われている「自由な選択の限界」論の多くにあてはまる。不登校問題に関して非難されるべきは、業務内容と関係がない場合であっても学歴がないと不利になる、不当な労働分配構造である(ほとんどの職業においては、学校カリキュラムと業務内容にたいした関係はない)。
 当事者主義は、多様な立場の他者たちが多様なパースペクティヴによって当事者の像を切り取る語りを批判し、当事者による語りを特権化する。「当事者『として』語ろう」「当事者『の立場(あるいは視点)から』語らなければ意味がない」といった物語は、「あなたは選択した」「あなたは病気だ」という物語と同様、強迫的でありうる。本書の最後で筆者は、「当事者の立場から」を錦の御旗として、「地域共同体を制度的に復元することが急務」といった特定の政策提言を、当事者一般のニーズを代表・代弁するものとして打ち出している。当事者主義は、他人の代表・代弁を批判しながら、自分は代表・代弁するといった恣意的な線引き gerrymandering*2 の手段となっている。
 それよりは、本書で批判された矢島正見のような、「様々にありうる他者の視点のうち、私はあなたには縁遠いかもしれない社会学研究者の視点で像を切り取りますが、インタビューさせていただけませんか」*3といったやり方の方がよい。当事者主義よりも、他者性を前提としたリベラルな多元的パースペクティヴ(の交錯)主義の方がよい。
 多彩なパースペクティヴが散乱する他者の海のなかで、各人は自己を試行錯誤し、生に馴染む旅を続ける。この進化の条件がリベラルである必要がある。問われるべきは、自由な社会の条件だ。


内藤朝雄氏の最新エントリー

考えてみればわたしは「当事者」だった。
http://web.archive.org/web/20011123103054/park.itc.u-tokyo.ac.jp/kiss-sr/~naito/newpage8.htm
でも、
学校制度を問題にする文章をたくさん書いてきたけど、「当事者性」を正当化や重みづけに使ったことは一度もない。
それをやると、大切な作品の完成度が低くなるから。
モノ書く人間としてのプライドが許さないから。
自分がたまたま「当事者」であったことではなくて、作品で勝負している。
自分の仕事についても、「当事者など、知ったことか」。

内藤氏は発話内容においては、「発話している私は当事者である」とは言わない。けれども、その発話行為が成立している理由、その粘り強さを駆動する原動力は、「知性」ではなく、「当事者性」に存していないか。学校制度への当事者としての怒りなしに、あの文体は可能だろうか。
→ 当事者の文体、研究者の文体


当事者であるからといって、傾聴に値する発話内容が作れるわけではない。まったくない。いや、レイヤー(層)を分ける必要がある。フィールドワークの対象となるべき発話内容と、分析や政策提案レベルの発話内容と。
→ 研究動機と研究内容を分けよ。





*1:図書新聞』2005年2月5日号

*2:「不当に区分する」▼誰が当事者で誰は当事者でないのか。――その確定にも「名付けの暴力」がある?

*3:貴戸理恵氏の『不登校は終わらない』において焦点となった、「当事者が当事者にフィールドワークする」という要因については、今回のエントリーでは扱えなかった。