和樹と環のひきこもり社会論(55)

(55)【「読み合わせ」という社会参加】 上山和樹

 斎藤さんは、私に何を求めておられるのでしょう。「単調で退屈だ」とおっしゃるのですが、私はひきこもりを論じることに心を砕いているので、斎藤さんに気に入られるリアリティを作るために理解をねじ曲げることはできません。
 また私は、斎藤さんの臨床を「全否定」などしていませんし、できるわけがありません。臨床の場に起こっていること、そこで斎藤さんが提唱されていることは、斎藤さんの自意識を超えているはずで、私はご発言を素材にしながら、いつも学ぶ努力をしています。
 私はこの2年あまりを通じて、ようやく斎藤さんへの疑問を言葉にできるようになったのですが、それはそのまま、どうしても譲歩できない点に気づく時間でもありました。斎藤さんのおっしゃる通り、私は間違った譲歩をしていたわけです。「社会に順応するには、関係を分析してはいけない。あくまで友好的に、相手を受け入れなければいけない」と、自覚できないまま思い込んでいた。ようやくはっきりしたのは、自分の順応している事情への分析を許されなければ、自意識の監禁地獄に舞い戻るしかないということです(斎藤さんに対してだけではありません)。
 「社会的役割から離れて、のびのびと語り合えていた」というのですが、この往復書簡には“無自覚的な”枠組みはないのでしょうか? 人の集まりなのですから、そんなはずはありません。さらには、誰にも強要されないのに、努力が最初から無理な形をしてしまうのが引きこもりの苦しさではないのですか。私にとっては、自分自身の問題です。正しくあろうとすること、順応しようとすることがいつの間にか苦しさを生むのですから、「いつの間にかはまり込んでしまう努力のシナリオ」をこそ、検証しなければ。――というより、その検証作業「として」参加すること。
 私が斎藤さんに「観客席から出てほしい」と申し上げたのは、いわば「読み合わせに付き合ってください」ということです。「読み合わせ」とは、演劇などの出演者が台本を持ち寄り、演じ方や脚本に修正を加えてゆく作業ですが、これをそのまま、ひきこもり臨床の雛型にできないでしょうか。支援事業や家族内で、それぞれがバラバラに生きている台本をつき合わせ、お互いに少しずつ調整してみること。その作業に、ひきこもるご本人も誘ってみること。――どうすれば「順応」したことになるのかは、周囲との関係の中で決まるのですから。