和樹と環のひきこもり社会論(45)

(45)【惑溺待望ではなく、分析を】 上山和樹

 前便で斎藤さんに薦められた映画『ラスト、コーション』を観てきました。映画としてはすばらしい。しかし、どうにもならない恋愛感情をひきこもりの臨床論として強調するのは、斎藤さんのお立場を凝縮していると同時に、やはり間違っていると思います。
 映画であれば「観終わってから」、そのスキャンダラスな関係をいくらでも論じることができる。でも臨床家としての斎藤さんは、苦しむ相談者に恋愛が始まるのを「待つ」のでしょうか。
「何かに夢中になりたい」という焦りだけがあって、夢中になれるかどうかは確率の問題でしかないというのでは、何をしていいかわからないし、自意識の悪循環をひたすら強めてしまいます。「自分はこれでいいんだろうか」「いや、こっちのほうが夢中になれるかな」…。
 目標だけが設定されていて、途中経過を無視するのは、支援者としては「操作主義ではない」というアリバイにもなりそうです。しかしそれは、惑溺の実現だけを目指した、「信奉対象を特定しない洗脳活動」にも見えます。――それに、いったん“恋愛”が実現したあとは? いちど巻き込まれてしまったら、「もはやどこにつれていかれるかわからない」とおっしゃるのですが、それでは人間関係へのトラウマ的イメージが肥大するばかりです。
 いまの斎藤さんは、傍観者的な、観客席のような場所から語りすぎていませんか。その斎藤さんも、あるいは今ひきこもっている人も、すでに関係に巻き込まれている。恋愛のように致命的な何かは、未来だけでなく、いま生きている関係や、過去の許しがたい事件の中にもあるはずです。スキャンダルは、過去や現在の中にこそある。私はそのスキャンダルへの取り組みを、本人と支援者の作業場としたいのです。
 それは、実現された順応を単に否定したり、人間関係をメチャクチャに流動化させたりすることではありません。むしろ、順応それ自体を目指せば目指すほど、順応は遠のいてしまうと思うのです。