雑誌『ビッグイシュー』 第101号 発売中

斎藤環さんと私の往復書簡 「和樹と環のひきこもり社会論」、今号は私で、『役割フレームへのひきこもり』です。

「逃げずに説得してみろ」という前便での問いかけに対しては、なるだけ直接的に答えようとしました。 しかし、それが最善だったのかどうか。


往復書簡について、あらためて font-da さんからレスポンスをいただきました(ありがとうございます)。

斎藤さんに向けての説得については、往復書簡そのものの枠内で頑張るべきだと思いますが*1、font-da さんとの間にもあるかもしれないすれ違いについて、説明を試みます。(これは往復書簡だけでなく、拙ブログや講演などでもずっと扱っているテーマです。今の私は、ひたすらこの部分に取り組んでいます。)

私が「観客席」と言ったのは、すでに生きられている関係を考え直してくれないということで、「ひきこもり経験があるかないか」は、焦点ではありません。 《順応》という根本モチーフを、自分自身の問題として考えてくださっているかということです。 ひきこもり経験がなくても、いま目の前の関係で、そこに生じる力関係について考えてくださるなら、それは《順応》について、まさに当事者として考えたことになる。

しかし、「すでに社会に順応した人間」として、ご自分が生きているあり方(順応ルーチン)を分析くださらないなら、それは「ひきこもり」について考えてはいても、《順応》については何も考えていない。 その相手をする者は、「すでに順応している」と主張する人に合わせて振る舞うしかない。(単に二人が同席していても、お互いの順応ゲームは生じています。)

ひきこもり経験がなくて支援者でない方でも、ご自分のあり方に取り組んでくださるなら、支援になる。――これは、直接的な経験者(“当事者”)以外を疎外するためではなくて、誰もが参加できる努力の指針を作るための議論です。 そしてそれが、ひきこもり臨床にどうしても必要な問題意識なのではないか。

臨床現場に同席し、往復書簡の場に同席していてすら「観客席=傍観者」でしかないというのは、ご自分が生きている順応スタイルを分析せず、情報処理についても、関係処理についても、ご自分のあり方を当然と思われてしまっている、ということです。

これは、ひきこもっている人に対して、あるいは「当事者」という言葉に依存してしまう人に対して、「そんなふうに関係を固定してしまっていいものだろうか」と問いかけることでもあります。――ひきこもりの場合、そういう関係固定が苦痛のメカニズムそのものになっていて、だから役割固定は、臨床上の害悪をもたらすのではないか。

今の私に疑念があるのは、マイノリティの立場に立ったことのない人や、硬直的な政治イデオロギー武装してしまった人は、「自分が何に順応してしまっているのか」を、わざわざ考え直してはくれないのではないか、ということです。


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*1:800字という枠組みと、「和樹と環のひきこもり社会論」というタイトルは、この企画が「論争」の起きる場とは想定されていなかったということだと思われます。