技法として創発する《真の父》

絵画の準備を!

絵画の準備を!



pp.391-393、岡崎乾二郎の発言より:

 モダニズムのひとつの原理として、これが作動するときには、まず歴史からの切断や忘却ばかりが強調されてきてしまったところがある。つまり、時間的 order を形成するのではなく、それを解体するのがモダニズムの視覚原理だと。しかし、そうではない。介入するという言葉でいうと、絵具を画面に置くというのは介入です。そしてそれは自分の行動を規制する力として働く。さらにその絵具の持つ色の強さを起点とするならば、たとえば色を描いていく過程の中で、最終的には、この色を活かしたいのだが、そのために、少し我慢して、まず別の色を併置しておいてから、その色を塗る、あるいは下塗りしてからこの色を塗ろうという順序が生まれるわけですね。実際に物を制作するときには、こうした唯物論的に規定される順序というものが生じてくる。この順序を守らないと物はできないわけです。物の道理にしたがった客観的な順序として技術はある。いかなる権力によっても、この順序を変えることはできない。というのも変えてしまうと物が崩壊してしまうわけです。 〔…〕
 行動を規制するもの、これをしてはいけない、次にこれをしなければならない、という行動の順序、時間的順序、時間の長さを決定するものというのは実は生産の秩序、物質的な抵抗にもとづいているわけですね。特に自分自身の身体にもとづいた技術であれば、自分自身に対して「それをするな」「それをしろ」と命令するものは、自分自身の身体の物質的抵抗、その必然からもたらされるということになる。その命令は、無意識というより技術生産過程としての身体、その唯物論的必然にもとづくといった方がいい。これには、いかなる権力であれ、逆らえないものである。技術的必然に従わなければ、生産不可能になるわけだから。
  〔…〕 感情とは一種、身体でも外部でもなく、身体に植え付けられた技術的生産過程、その順序的必然がもたらす抵抗によるものかもしれない。ここで技術的生産過程を身体図式といいかえても表現(言語)形式としてもいいかもしれませんが、たとえ自覚していなくても、身体には、複数の技術、表現形式がすりこまれている――フロイト的にいえば、それこそイド(エス)ですね――。このプロセスを抑圧すると、抵抗が感情として現れる。ゆえに感情は行動に影響を与える。感情的な行動は愚かだとされるけれど、であれば、感情以前の、そもそも感情によってしか反応できなかった、感情を発生させる要因となった不可抗力としての物質的抵抗にまで遡って、行動を再組織するしかない。感情は物質的に制御できるけれど、物質的抵抗それ自体は制御できない。その理(ことわり)に従って、order を組み立てなければ、何事もなしえない。自然法というものに含まれた考えというものを拡張するとこうなる。
 絵を描くこと、何かを作ることは、そういう意味でまったくアナーキーにやっているわけではない、厳格な順序、命令というものがあり、自ら、それに従って作られるわけです。その意味で自らを律する権力というものを、そこで自発的に生成させている。そして、この決定はけっして主観的なものであってはならないわけね。主観的に基礎杭を打つ人間がいないように、主観的にキャンヴァスをはったり、下塗りをすることはできない。ごはんを食べたあとに歯を磨くのも主観的ではないし、夜、眠るのも主観的決定にもとづくものではない。それが今回メディウム・スペシフィックということで考えたかったことです。つまり技術=時間的 order の生成の原理として、それを考える。それは絵具というメディウムの抵抗でもあるし、同時に自分の身体が自分に与える抵抗でもある。



私は《真の父》を、創発的な技法として語りたがっている*1


ものを作るときには、一定のパターンに習熟したうえで、リアルタイムに起きること*2に対応しなければならない。その全体が、ある文脈と条件に巻き込まれている。


私たち自身をメディウム〔媒剤・媒介〕と考えたとき、技法は、身体性として内在的に生きるしかない。ごまかせば、単にブツとして破綻する。《信念》を語ってディテールを無視する安易さではなく、技法の厳格さが要る。


《真の父》は、固着したパターンを反復することではなく、むしろ偶然性の引き受けにこそ創発する。*3



「新たにやってくるかもしれないもの」がある以上(エクリチュール)、正しいか正しくないかは、確率的にしか語りえない。それを踏まえたうえで、私は今この場でどのように生成するか。これは、断片の誤配という条件を確認するだけでは、どうにもならない。



    • 「計算不能における決断の狂気」は、その決断が置かれる状況を組み替えず、自分の思考様式を分析しない。結論としての「最適解の不可能」だけが語られ、そう論じているおのれの生産過程(プロセス)が話題にならない。結論の不可能は見つけるが、「ではどうやり直すのか」は放置される。いきなり決断の狂気をやらされる。分析の様式、その独自のエコノミーを提案する話にならない*4。作業をやり直すための技法論がない。
    • 法創設・法維持の暴力があった/あるとして、では今から私はどうするのか。どういうスタイルでそれを創設し維持するのか。デリダ自身はどうだというのか。彼が制度分析なしにある分析をひたすら量産したとしたら、彼は「あるスタイルでの生産」を固定していたところはないか?


    • 各作品において、《真の父》みたいなものを描き出すのが分析ということになっているが、それは「事後的に発見される構図」を描き出すメタ言説であり、そのようなものとして、分析のスタイルが固定されている。作品に様々なバリエーションはあるが、《真の父》のパターンを複数見せられるだけ。それをたとえば「複数の超越論性」と呼んだところで、論じる自分がどうやり直すかという話にならない*5
    • 《真の言葉》は、結果物としてばかり語られる。しかしそれ以前に、あるスタイルのプロセスを内在的に生きる力が備わっていなければ、《真の言葉》の生産過程に入れない。その瞬間に必要な言葉(リズム・タイミング・内容・デザイン)を、肉化できるということ。《真の父》は、本当に必要な言葉を、身体とともに生きられる
    • いつのどんな場面からも《対象a》を削り出すジジェクは、一定の芸ではあるが、生産様式は硬化している。彼は何語でどの国でしゃべろうが同じに聞こえる。逆にいうと、現象世界は彼にそんな話芸を許す条件を帯びている。


ノイズだと思ったら、致命的真実だったかもしれない(確率論)。
そしてその前に、《つくるスタイル》が間違っていたかもしれない。
どんどん時間は過ぎていく、どういう技法でやり直すのか。



*1:永瀬恭一ほか、書籍『組立-作品を登る-参照)掲載の拙稿「主体化の失敗から、触媒としての生成へ」でも、同じテーマを論じている。

*2:道具や環境の身辺雑務、「表現衝動」みたいなことまで含めて。

*3:訓練は、偶然性を引き受けるためにこそなされる。

*4:結果的な作品についてというより、生産過程について必然性が問われている。オリジナリティはむしろその結果。

*5:「どれを選びますか」と問う人は、自由とは選択肢が増えることだと思っている。またその質問をする人は、そう問うだけで正しいあり方をしていると前提される。しかし必要なのは、選択肢の条件づけを考え組み替えることであり、問いのスタイルを変えることだ。