べつの時間軸を繰り込む技法

柄谷行人による、『災害ユートピア』書評より:

 国家による秩序がある間他人を恐れて暮らしていた人たちは、秩序がなくなったとたん、たちまち別の自生的な“秩序”を見いだす。それは、他人とつながりたい、他人を助けたいという欲望がエゴイズムの欲望より深いという事実を開示する。むろん、一時的に見いだされる「災害ユートピア」を永続化するにはどうすればよいか、という問題は残る。



日常に思い込まれた欲望と、非常時にやってしまうことは、ちがっている。
しかし、それは時間の質が違うからおのずとそうなるのであって、日常と非日常を同じモノサシで比較して「こっちの欲望のほうが強い」とかいうのは、違うと思う。日常なら日常で続いてしまう欲望や合理性があるし、それは震災のエピソードを持ってきて「本当はべつの欲望が隠れている」と言ったところで、処方箋にならない。


必要なのは、非常時に体験された時間軸を、どう日常に繰り込むかということ*1
それはまさに技法や制度設計のレベルで問われることだと思う*2


私がいまジャン・ウリガタリに興味を向けているのは、あの感動的な時間の関連にある(参照)。



*1:「革命」という言葉を、日常に繰り込むべき処方箋のレベルで考えることになっている。

*2:LETS」や「PICSY」で提示された、「決済制度の設計図を変えることでメンタリティまで変わってしまう」というモチーフは、単に決済制度が「ローカルだ」にとどまらない可能性を含み得る(ひきこもり文化論』pp.169-175 掲載の拙論を参照)。 とはいえ逆にいうと、システムを作るだけではうまく回らない。