問いと答えの制度

近藤和敬 「問い・身体・真理」(山森裕毅氏)より:

  • 問題の〈理念〉としての性格がうまく論じられていない
  • ドゥルーズの場合、「問題」の存在論的性格を解明するために数学に依拠している

近藤氏のもとの論考は読んでいないが*1、このエントリーは次のことを喚起させる。

    • 福祉や臨床を口実にすることは、自明な正しさを保証しない。 「マイノリティのために」は、メタな口実たり得ない。 ある課題設定は、すでに重要な決定の終わったあとの姿をしている*2
    • 《問題‐問い‐解》を生きる場としての大学そのものの意義が問われる。あるいは企業であれ患者さんであれ、問題に取り組む方針それ自体が間違っているかもしれない。



「そういう問題の立て方をしているから、努力すればするほどおかしくなる」――そのことには、《「問題‐問い‐解」の弁証法》だけでは気づけない。
数学はそれ自体が問いの制度なので、苦痛それ自体が数学という問い方を使えないような形をしている場合、お手上げになる。というか、その問い方にしがみつくこと自体が問題状況の一部になってしまう。 思い込まれた《「問題‐問い‐解」の弁証法》が、固着した制度そのものとなる*3


本当に生産的な問いは、逸脱として生きられるしかない。 議論の立て方を間違うと、その最初の第一歩それ自体が抑圧される。



*1:なので、近藤和敬氏のもとの論考それ自体についてはここでは判断できません。

*2:たとえばある人は、臨床の問いとして向精神薬の話しかしない。にもかかわらずその人にも、《「問題‐問い‐解」の弁証法》がある。

*3:cf.「記号論的な足場(échafaudage sémiotique)」――「そうしないと、通りを歩いたり、起き上がったり、自分に期待されていることをするといったことをつづけられない」