「精神病院解体後のイタリアの精神医療−ウンブリア州を中心に」

松嶋健氏の講演をめぐって。(以下、強調は引用者)

 イタリアでは3年ほど前*1に、ついに全土で公立精神病院が廃絶されたのをご存知でしょうか。 1960年代から精神病院の開放運動が始まったイタリアでは、78年に公立精神病院の廃止をきめる法律180号(運動の中心だった医師の名からバザーリア法とも呼ばれる)が成立しました。 (略)
 但しこれは、精神医学そのものを全否定したということではありません。より広い社会的な文脈において、「個人的な精神疾患」ではなく「社会的な苦悩」に正面から向き合おうとしたのだと言えます。したがって重要なのは、精神病院をなくすか否か、ということよりも、精神病院という場を成り立たせている「Instituzione 制度=施設の論理」を問い直すことだったのです。

 それゆえ見るべきなのは、公立精神病院を廃止したという点ではなく、それに代わってどのような地域精神保健システムが構築されたか、という点です。 (略) ただこれらの施設を新たにつくっても、それが以前と同じ論理、つまり「正常」な医師と「異常」な患者との間に線を引いて、その非対称的な関係性を固定的に再生産するような論理のままでは何も変わりません。問題は「ケアをする制度自体をケアする」というところにあり、制度の硬直化を防ぎ、治癒が起こりやすいような場をどのようにしてデザインするかということです。そのヒントの一つがミーティングの多さです。スタッフ、患者、ときに地域住民も巻き込んで行われる話合いで議論や会話を重ねることは、制度を柔軟にしておくための一つの技法だと言えます。但しそれは自己主張のためのものというよりも、他者と自己の欲望に気づき、それを満たしうる状態を作り出すことにより、各々が現在の役割を乗り越える、そのための作法なのです。



「病者を受け入れなければならない」と、形式的な規範のレベルで説得しても、「私たちは、多様性を肯定しているんだ!」というナルシシズムを布教することにしかならない。 病者本人にとっても、受け入れ側にとっても、「政治的正しさ political correctness」が、全体主義的に問われるだけ。
松嶋氏の議論では、「良いことか、悪いことか」の検討に、臨床的な趣旨が織り込まれている。 民主主義や熟議が、政治的正当性のレベルだけでなく、関係者全員にとっての臨床性との関係で検討されている。
集団的意思決定の問題は残されているが、少なくともここには、別の軸が生じている。 メタ規範の空中戦ではなく、個別的な臨床の時間軸が*2



*1:【引用者注】: 「2000年末にイタリア政府保健大臣は国内の精神病院の完全閉鎖を宣言した」(参照)。 イタリアでは精神病院のほとんどが公立だったが、日本の精神病院は90%が私立。

*2:逆に言うと、規範理論のメタ談義は、臨床固有の時間軸を排除している。