鮮度論的差異

現象は毎日新しい、というより、古くなってくれない。 そのことが異常に古い。


個物は古くなるが、「古くなる」という現象そのものは古くならない。 絶対の鮮度。
ハイデガー存在論的差異*1になぞらえ、《鮮度論的差異》と呼んでおく*2


「新しくなり方が古い」 「そういう仕方でしか新しくなってくれない」*3
新しさを語る批評じたいが、古臭いパターンを反復するしかない。
概念は、現象の鮮度を前提にする。
《現実》 《神》 と呼ぶ代わりに鮮度と言っている。


最も古いものが、100%の鮮度でそのままある。 この現象への言及に疲れ果てている。


身体の健康には「物の新しさ」でじゅうぶんだが、精神の健康には、別種の新しさが要る。



*1:それぞれの個物の存在と、大文字の《存在》そのものを分ける

*2:関連:「個々の個物は鮮度を落とす、しかし、「鮮度」という問題設定自体は鮮度を落とさない」(参照)、 「現象は、「この野菜は新しい/腐っている」とは別のレベルで、永遠の《鮮度》を保っている」(参照)。

*3:たとえば新製品は出るが、商品が新しくなるという「新しくなり方」は古い。 一つひとつの仕事は、それぞれなりの「新しくなり方」のルーチンに入ること。 理論にも、理論なりの「新しくなり方」がある。