古臭い「新しさ」と、時間軸の社会的編成

画家・永瀬恭一氏に対して、さらにこちらでお返事してみます(お返事というか、関連したメモみたいなものですが)。なおネット書店の遅延が続いていて、『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』は未読です。(以下、赤字や太字の協調は全て引用者)


★古谷利裕氏より: http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20150406 (永瀬氏からの示唆)

 あるシステムや集団のなかで、流れや空気に逆らうようなツッコミを入れると波風が立ってしまう。つまり、突っ込む人のリスクが高くなってしまう。突っ込むことのリスクを突っ込む「個」に負わせてしまっている、とも言い換えられる。そのために、「個」としてはツッコミを回避して、空気に従うことが功利的に正しいことになる。

  • 前者では、攻撃的、敵対的なツッコミ(あるいは「正しさ」の過剰適用)が、
  • 後者ではリスクを避けるためのツッコミの回避(あるいは「正しさ」の欠如)が

問題となっている。だがこれはどちらも、我々は(「個」としても「システムや集団」としても)「敵対的ではないツッコミの技法」を十分に知らないということが問題なのではないか。

 不用意にボケてしまう人、不用意に突っ込んでしまう人こそを、最大限に尊重しなければならないのではないか。それは天使のような媒介者


    • 「天使のような媒介」となる不用意な言動は、フロイトで言えば「言い間違い」でしょうかね。――とはいえこれはフロイト的な解釈に閉じ込めてしまってはいけなくて、古谷氏の指摘はもっと大事な、違う分析の立ち上がりを指摘してしまっていますが。
    • その「天使のような媒介」は、集合的状態が準備されていなければ、糾弾されたり排除されたりするわけです。コミュニティ内部において、二度とそのような《不用意な》言動が起きないように。





★永瀬恭一氏【フリーペーパー「新しき場所」の「はじめに」を公開】より:

 私たちは場所を開き、そして開き続けなければならない(そうでなければ生存できない)。刻々と、続々と場所を開く。〔…〕 描くとは、与えられた空間とは異なる空間を開く事─開き続けることに他ならない。そこに生きて生存しているだけで、私は時空を開いている。しかし、それは十分には開いていない。生まれ落ちた瞬間から、私の時空間は閉じられる事が決まっている。だから、生きるとは、与えられた空間とは異なる空間を開く事─開き続けることに他ならない。その為には与えられた空間を測定し、吟味し、分析し、解体し、組み立てなければならない。与えられた空間は、与えられた場所は、与えられた歴史は、与えられた関係は、与えられた条件は、私の交渉相手であり、私の素材だ。同時に、そのような素材=環境を吟味し、批判し、組み替えようとする姿勢/体勢自体をとる余地・余白がいつまであり得るのか。

 私が開こうとした場所が、規定的な判断の名の元に一元的に組織されているならば、その「場」は私が求めている空間ではない。〔…〕 私は、与えられた場を上手く分割し占有するのでも、与えられた場を前提にしてそれに抗うのでも、与えられた場を「もう一つの、たった一つの場」に塗り替えるのでもない、「新しき場所」、無数の「新しき場所」を開示する方法を希求している。多産。一度開いた「自分の」場所も、明日にはもう既存の、与えられた桎梏になる。明日の自分と今日の自分が同じ自分である保証はないからだ。私にとって絵を描くとは常に、ひと筆ごとに世界を、場所を開示する行為に等しい。


    • 問題の焦点は、《何をもって新しいことにするか》ですね。新しさの種類というか。
    • たとえば精神科医療の領域でいえば、向精神薬が新しい調合と名前で出れば「新しい」ことになりますが、「新しい薬を待ち続ける」という態度そのものは古色蒼然としています。つまりそこでは、「新しさ」のありようそのものが古い。



永瀬氏からの、ツイートでのお返事:


    • 生活防衛的であるとは、ある古さ(固着したパターン)への集合的執着から抜けられない状態に思います。雇用関係やマーケットとの関係もあるので、《新しさ》を勝手に追究することができない。
    • これについては、ひとりだけを責めても空しい。集合的な状態を整えておかない限り、「食いはぐれる」リスクが大きくなりすぎるからです。*1
    • さてでは、そこで「集合的な状態を整える」とは何か。これまでにないような、コミュニティの試行錯誤だと思うのですけれども。





★永瀬氏【「新しき場所」の「はじめに」】より:

 空白地帯としての元・車道は、あふれ出た人々相互の意思によって、一瞬、車道とは異なった新しいコードを形成しようとする。既存のコードと、そこを解除して新たなコードを生もうとする運動の絶え間ない波。その波が形成する新たなる場所、元車道としての広場。これは近代以後の絵画の問題構成ではなかったか。与えられたキャンバスに、それを解除した空間を構成すること。重要なのは、ここで溢れ出る人々が、けして一元化された存在ではないということだ。だからこの「広場」もまた、一元化された場所ではありえない。


    • 「ここで溢れ出る人々が、けして一元化された存在ではないということだ」――これは実際には、難しいのだと思います。それぞれが雑音を抱えていても、みずからを「均一化された存在」にしなければ、生活できない。あるいは各人のエゴイズムは、イデオロギー全体主義で安易にアリバイを調達する(みずから進んで均一化されようとする)。
    • むしろ私たちは、逸脱的であることにおいてこそ均一化されており(凡庸な逸脱しかできない)、そこにこだわっても大した成果は得られない。それより、些末な雑音などなかったことにして、誰かを恫喝したほうが利益が大きい――右も左も、こればっかりに思えます。


そのうえで、

  • 私たちに必要な《新しさ》は、どういうものか
  • 一元的な《古さ》に監禁されないための技法は?

――これが問われるように思います。
単に「新しさ」を言うだけなら、
マーケットに押し付けられる規範でもあるわけですから。

    • 拙ブログのエントリでは、場所を再生する分析 が関係しそうです。(ラボルド病院や Félix Guattari)
    • 三脇康生氏《いつも「新しい」精神医療のために》(『ドゥルーズ/ガタリの現在』pp.222-244)で言われる《新しさ》は、臨床に必要な《新しさ》であり、永瀬氏の言う「新しさ」と強く関係していると思います。



私がラボルド病院(を研究する三脇康生)や メルロ=ポンティ(を研究する廣瀬浩司)を参照しつつ、《制度》という概念にこだわっているのは、ひたすら《新しさ》を問題にしていると言っても、あまり外していません。

ラボルドの技法で、一定の硬直(かたさ)をも「使う」というスタンスがあるのは、いわば《古さ》を使っているとも言える。そして、それを必要に応じてやり直すのは、まさに《新しさ》の導入が問われている。(新しさの導入がなければ、動きが止まってしまう。たとえ動きがあるように見えても、それは単にルーチンの反復であり、もはや新しさの導入はない)

 規定的な判断の名の元に一元的に組織されているならば、その「場」は私が求めている空間ではない。〔…〕 与えられた場を「もう一つの、たった一つの場」に塗り替えるのでもない、「新しき場所」、無数の「新しき場所」を開示する方法〔…〕 (永瀬さん「はじめに」)



場所は、恒常的に新しくし続ける必要があるわけですが――
それは、空間方向に複数性を言うだけではダメで、
時間方向について、《今この場でどうするか》が問われるわけですよね。


ドゥルーズ/グァタリの用語を持ち出すなら、《クロノス》が古い時間(時計時間)、《アイオーン》が、今この場で初めてやり直される特異的な時間――ということになると思います(参照)。とはいえその《アイオーン》は、永瀬さんが言うところの

 どのように「生活」を一元化しないでいるか

を解決できないかぎり、「ルーチンに監禁されたままのナルシシズム」にすぎないでしょう。(なにも変化させられないくせに、「新しい」と思い込む哀れな自意識)


ですから、「新しき村」などのコミュニティの実験は、
たんに空間的な複数性を称揚することではなくて、

  • 集合的な時間軸(の技法)をめぐる実験である

という自覚が要るんだと思います。


私たちはお互いに、お互いの時間を支配し、窒息させてしまう。
しかしそうすることで初めて、集合的な生活が出来るように見える。
――そうでないような社会生活なんて、あり得るんだろうか。



*1:上の引用箇所で古谷氏の言う、《突っ込むことのリスクを突っ込む「個」に負わせてしまっている》