元気になるとは、作り手に回るということ
主権者であれば、実績を通じてしか評価されない。
ひきこもりに関する番組やイベントは、まず医師・学者・ジャーナリストなどで構成される。
悩んでいる本人たちは、「観察対象」でしかない。
考えてみれば、これは異様なことだ。
25年前の親世代が作った「子どものための支援体制」が、そのまま続いている。 取材されても、期待される発言はだいたい決まっている。 《稲村博・斎藤環 vs 東京シューレ系》も、制度的専門家や親世代が揉めている構図であり、悩む本人は置いてけぼり。 要するに、問題理解の構図が古い。
とはいえ、愚痴を言うだけでは、それ自体が「子どもを演じること」でしかない。 ひきこもりについて企画を作ろうとしたとき、医師やジャーナリストをまず思い浮かべてしまう、その状況を変えるには、ひきこもっていたとされる人たち自身が実績を作っていくしかない。 「良い番組を作るには、この人たちに協力してもらわないとダメだ」と思わせる、そういう実績作りや、環境づくりまで考えないと。
つまり、仕事のパートナーとして評価される必要がある*1。 「かわいそうな○○君」ではダメなのだ。
今のところ引きこもり経験者は、《観察対象=制作されるもの》でしかない。 《主権者=制作者》ではないゆえに、対等な関係で検証されることもない(一方的に罵倒されるか、一方的に評価されるか)。
お互いが主権者であれば、誰かを「当事者だから」と特別扱いすることはできないし、バカをやれば制裁を受ける。 また、仲が良いかどうかと、仕事を一緒にできるかどうかは別のこと――そういう当たり前の議論が、まだ始まっていない。
これからだ。
美術家・岡崎乾二郎(@kenjirookazaki)氏の tweet より
* 真偽の判断を、美学的な判断が覆ってしまうことが、いちばん厄介。 もっとも 嘘 の自覚(確信的に嘘をつく)は、真偽の判断そのものでもない。 判断そのものの基準の複数性の自覚であり、その選択可能性の自覚である。
「人間力」「希望」「やりたいこと」etc. ・・・・すべて、美学系の用語でしかない。
若者に仕事をさせようとする人たちは、自分が動けていない現実を美学系タームでごまかしている。
* 嘘を守り通すことは、真実を守り通すことと、実は変わりはない。いや、その言明、における真意、を特定された言説系列での同意という機構によって支えることを求めない(嘘の条件は 沈黙に耐えうる、ことだ)のであれば、真実以上にかえって、言説それ自体としての自律性をもつ。
《作品をつくる》という強度を生きているか。
そのためにメディアやリズムを選び、環境づくりを出来ているか。
ぜんぶお任せにして、観客席に座っていないか。
* 制作者にとって虚構をあえて制作する、など疲れることはやりたくないもの。いいかえれば作るという作業は、それ自体が現実性をもつから、いかなる意味でも虚構とはなりえない。制作という行為は決して虚構にならない。
* 何でもできる自由、とは、何かやることの面倒さ、労力という現実性を無視した詭弁。いかなることでも言えるというのも同様。言うのは疲れるもの、まさに体力的にも。(思わず無自覚にもらしてしまった嘘でないかぎり)嘘をつくなどさらに大変。体力が消耗する。労働としての確信なしに嘘はつけない。
* 問題はそれを、方便(手段)としてやっているのだという、方便の効果を測定できる計算ができるかどうか。計算可能だと信じているかどうか。計算可能と信じている人を嘘つきという。
だから、「社会に引き出すこと=魅惑」を目的とした引きこもり支援は、どうしても詐欺になってしまう。
本当は、本人が内側から制作過程を立ち上げられるか否か、その勝負でしかない*2。(だから、制作過程についての批評が欠かせない)
専門性というなら、制作過程がおのれで分節して成熟させなければならない。(外部から観察した「専門性」は、その観察者のリアリティを成長させたに過ぎない。苦しむ本人が自前でつくり出す関係性にとっては補助的な意味しかない。)
専門性はそれ自体が関係性の成熟過程であり、結果的な《つながりの正否》*3よりも、質的強度や方針が問われる。
* シュルレアリスムの(真に政治的な)ひとつの方法論は(ときに知らずに介入してきている)無意識的な検閲機構をあえて明示し、表示することにあった。 (略)
* いわば 〈「雨がふっている」 だが「私はそれを信じてはいない」〉 、この二つの文が並列可能であると確信すること。(つまり、わたしはそれができる、と確信すること)。 これが(表現の自由のみならず)自由というものではないかしらん。
これを読んで、ひきこもり論がこうむっている無自覚的な検閲に気づかされた。
いわゆる権力者に対してだけでなく、「弱者への配慮」とやらが何も語れなくさせている。
その検閲に気づいたうえで、その状況そのものまで引き受けなればならない。
「誰かに向けた攻撃」のままでは、もめごとの古い構図に巻き込まれて終わる。