デッサンとしてのブログ?

 この微妙な瞬間を考える上で重要なものに、素描=デッサンがあります。 デッサンとは、完成品へといたるプロセスであり、初期段階であり、たんに作品が完成する前の段階のことと考えられやすいですが、本当にそうでしょうか。 むしろデッサンとは作品の完成を意識することなしに、見えるものが発生する現場でノートしていくことなのです。 よく美大の学生さんが、自分のモチーフを探すときにデッサンを行ないます。 デッサンをしている間に、モチーフとして何かが見つかってくるのです。 見えるものをそのまま描くのではありません。 このデッサンの訓練は、見えてくるものを自分で見る訓練なのです。 予感の力をつける訓練なのであって、予想(結果)の訓練ではありません。 三脇康生「気配、予感」、『アート・リテラシー入門―自分の言葉でアートを語る (Practica)』p.35-6)

再帰性の苦しみに取り組む可能性として。
「意見を表明するために書く」という単に機能的な側面とともに、書いている人の、地に足のついた制作作業が続いていく場所として。
それがやわらかい制作現場であればあるほど、ひどいことを言われたときにダメージが大きいのだけれど。 トラブルを回避することと、それでも制作を続けることと。
むしろ、トラブルに取り組むことがそのまま自分に必須の《制作現場》になっているような、そういう要因がなければ、生のすべてが「順応努力」になってしまう。 内発的な(つまり受動的な)取り組み意欲*1と、外的な環境事情が接点をもてるかどうか。(内発的要因なしにトラブルばかりが続けば、人生そのものがやっつけ仕事になってしまう。)
もちろん、「私的制作であれば、公的には迷惑だ」と言い得る*2。 しかしここで問題にする制作は、つねにラディカルに分析を介入させるものであり*3、自分のいる場所の緊張の磁場と切り離されていない。 隔離された場所での制作は、箱庭的に安楽ではあるが、すぐに根拠を失う(「自分は何をやっているんだろう」)。
「デッサンとしてのブログ」というよりは、「自分のいる場所*4での中仕切りとしてのブログ」であり、その中仕切り自体が、デッサンのような試行錯誤にあたる。 むしろ制作者は、つねに中仕切りをして自己自身への批評家としても振る舞わなければ、事態に切り込む制作はできない。(事態というのは、まずは家庭や仕事場の《日常》のことだ。)



【参照】: 東浩紀:「象徴界が衰弱している」*5

実際にどうにもならなくなっている側としては、「衰弱している」と済ませている場合ではない。 自分のいる場所で中仕切りして自分で創りなおす、その作業が(衰弱したとされている)象徴界の代わりをせねばならない。 「衰弱してるんなら、自分で作り直せよ」ということであり、東浩紀みずからは、メタ的な考察そのものをみずからの制作モチーフとしている。(その口真似をしたところで、自分で制作したことにはならない。)
この東浩紀に反論する斎藤環は、「象徴界の変容は統合失調症の問題だ」等と理論的カテゴリーを擁護するだけで、《制作過程》をまったく問題にしていない。
生きづらさのモチーフとして本当に問題にするべきなのは、制作過程の困難さだ。 制作過程の「結果」としての解釈や自意識を争っても仕方がない。







*1:ドゥルーズを参照しながら「おのれ自身における差異」と呼んでいるのは、これのことだ。

*2:私はむしろ、みずからの “制作” 的契機を問題にせず、最初から「公的」「正義」をアリバイにする語り手に欺瞞と怒りを感じている。 そのような者は、自分のいる場所でのローカルな論点化(みずからへの機能分析)を決してしない(「全体性を参照するエリート」)。 つねにすでに「絶対に正しい」とふんぞり返る。 メタな自意識がナルシスティックに温存される。

*3:三脇康生はそれを「中仕切り」と呼んでいる(参照)。

*4:マイクロレベルからマクロレベルまで

*5:大澤真幸東浩紀斎藤環シニシズム動物化を超えて」(『メディアは存在しない』p.233〜)