「あなた自身は、どう構成されているの?」

ここのところで、日本の知的言説はどうやらシフトチェンジに失敗している。70年代の情念的左翼主義から、80年代以降のお気軽なポストモダンへ。近年の左翼言説が、きわめてベタな教条的情念主義や脅迫主義に堕しているのは(参照)、80年代から続く「お気軽な正当化」へのリアクションにも見える。既存のアカデミズムや知識人の言説は、体験されている危機をミクロに扱わず、「だいたいこういうことを言っておけば正しいことを言ったことになる」というレベルの話しかしていないのだ参照)。ほとんどの知的言説は、語っている内容そのものの真偽にばかり気を取られて、語っている自分自身がどういう環境におり、どう構成されているかを分析しない*1。 語り手はつねに、形式的な「べき論」か、アカデミックなアリバイ作りの言説しか試みていない。 「それを語っているあなた自身は、どう構成されているの?」という話は、「○○であるべきだ」という喫緊性や見せかけの正当性によって、ひとまず脇に置かれてしまう。
自己分析がいくら脇に置かれようとも、ある努力のスタイルが事実として生きられてしまうのであり、そのことの皺寄せは、必ず誰かに行っている。――この有責性が、ひきこもる本人についても問われなければならない。ひきこもる危機と行為は、他者との関係の中にある。 ここでは、傷の特権化ではなく、プロセスの危機に関する協働と有責性が問題になっている。

macska: で、カウンセリングはともかく、社会施策的な処方箋を聞きたいわけですが。

選択肢として、個人の心理をこねくり回す「カウンセリング」と、その対極の社会施策しか考えられていない。そもそも、macska氏のいう「コントロール感」とは、主体の経験するミクロな政治のことだろうに。 当事者的論点化は、ナルシシズムではなく、個人の政治化の問題であり、プロセスとしてそれを目指している。
斎藤環のいう再帰性実体化への処方箋として、私にはこれ以上の案を思いつかない。 社会全体のレベルではさまざまな長期的施策が必要であり、そのために社会学的な議論は必須だとしても、それはすでに苦しんでいる主体に何のヒントも与えないし、支援者やご家族に、環境改善の直接的ヒントや有責性も与えない。アカデミックに語る本人自身が、語るみずからの主体プロセスをなかったことにしている。


その2につづく】


*1:たとえば「環境管理と動物化」を語る東浩紀は、動物化論自体を手放してみずからが動物化することはない。動物化論にこだわる東自身は、きわめてメタ的・人間的に構成されている。▼そこでは、自己の構成が具体的に(才能の導きのもとに)実演されるばかりで、その自己の構成の難しさ、そこで経験されるプロセスの危機それ自体が主題になることはない。危機は、才能によって単に「克服され」、環境や関係のミクロな問い直しが主導的なモチーフになることはない。