課題: 労働過程の臨床

macska: いま現にひきこもっている人がいて、そこから離脱するのが難しくて「治す」方法も確立されていないのは仕方がないとして、せめて本人の心の準備ができれば復帰できるような社会の側の準備はしておきたいですね。
chiki: そうですね。そのために、妙なバッシングなどは中和できるよう、ブロガーとしてできることはやりたいなぁ。

ありがたいことだし、私もその趣旨は共有している。――厄介なのは、単に受容的な環境は、必ずしも肯定的に機能しないということだ。座談会でも少し触れられているが、(フリースクールのように)全面的に受け入れるだけでは、集団の中での主体の危機は放置されている(むしろ再帰性の温床になり得る)。
ある親の会の幹事は、社会学の大学院生を対面で紹介した際、いきなり激怒した。 「調査対象」にされることは、長期的には意義があっても、目の前で苦しんでいる人の恩恵にはなりにくい。 まかり間違えば、学者や学生の業績に利用されることでしかない。 ▼社会的・長期的展望を持てない業界関係者への説得はもちろん必要だが、数十年後にしか効果が期待できない議論は、目の前のご家族やご本人を置き去りにし、「観察対象にしている」という自覚が要るはずだ。
社会学的知見に意義があることにはまったく異存はないが、それだけでは、すでに生じている数十万人の危機は置き去りにされてしまう。 「原因論」まで云々するこの座談会は、知識人らの知的要請(or 知的ナルシシズム)に応え*1、社会環境の改善を目指すものではあっても、ひきこもる本人やご家族が直接着手するための原理的模索は、忘却されたままになっている*2


その3につづく】


*1:強いて言えば、「学者的な語りを手に入れることの臨床的効果」は確率的にあり得ると思う。 実際、「社会学を勉強してラクになった」という声はたまに聞く。それは、それまでとは別の苦しみ方(生産様式)を手に入れることだ。

*2:もちろん、この座談会自体が具体的「着手」であり、私のエントリーはそれに応じる形になっている。ここにも、労働過程の呼応関係がある。そこに事後的な分析が必要だ。