『新潮 2007年 10月号 [雑誌]』掲載。
私は、虚構作品をそれ自体として楽しむ習慣がなく、「自分がものを作るためのヒント」が欲しくて読んだ。 読んでよかったし、今後も何度か立ち戻るつもり。 以下は、初読後のメモ。
【以下、ネタバレ注意】
(※映画『マトリックス [UMD]』の内容も一部記述されます)
- 『マトリックス』は環境世界の名前だったが、こちらは「キャラクターズ」。 うんこを我慢するネオ。 映画では「現実とマトリックス」だったが、こちらはラカンの三界で、分裂するのはキャラクター自身*1。 キャラクターの排便欲求は読者側の生理感覚にもするどく影響し、動物レベルでのリアリティの支えになる。
- 『マトリックス』では、象徴界は文字列であり救済者は「読解者」だったが*2、「キャラクターズ」では作品自体が文字列として成り立っている。 「救済者としての解読者」は、作品内存在としての批評家?作品の意図を読み取る読者?
- 固有名詞がたくさん登場して、やっぱり現実は現実でしかないが、それも「現実/作品/私」の関係を問う構図の中にある(『マトリックス』では、ネオとキアヌ・リーブスや監督の間には何の関係もない)。 東浩紀が実世界で交流のある固有名詞はいちいちネタに見えるが、《現実/作品/私》の関係を問う態度は真剣そのもの(参照)。
- 作り手は、「自分のリアリティ」に忠実になるしかない。 リアリティに本当にこだわり、そこから何かを変えていこうとするなら、ナルシシズムは怠慢でしかない。 キャラクターにこだわる態度は、それ自体がナルシシズムにも見える。 一人ひとりのキャラクターは、読者のナルシシズム(感情移入)の仮託先として成立する*3。――そのような環境のロジックを描き出す批評家のリアリティも、作品内に描かれるべきキャラクターのリアリティと同じ階層で描かれる。 批評的であろうとすること(作品の解読に躍起になること)自体のナルシシズム、という相対視が、読者にも突きつけられる。
- 小説作品としてベタに味わうのではなく、「この部分は小説作品を演じているのだ」というメタ目線でしか読めない。そういう再帰的な目線も、作品内に繰り込まれている。
- 「私・セックス・死」――既存社会の規範を破壊するような振る舞いは、それ自体がきわめて陳腐な制度的振る舞いでしかない。 破天荒な言動をすれば「文学者っぽい」と思い込む、幼稚な自意識。 ▼《私》の話しかしない文学を「下品で退屈」と一蹴しており、本当に痛快。 これはもちろん、「当事者」という言葉で制度化された言説を垂れ流している人にも言える*4。 「作家」の神聖視は、「当事者」の神聖視に似ている。 作品への「批評」と、人格批判とが一致してしまう不毛さ。 「お前のことなんかどうでもいい、作品として、事業としてどうなのか」
- 現実世界に閉じ込められたまま、体験の制度が決められている苛立ち(SFを読んだって、《現実》は現実のままに放置されている)。 一つ一つの過激な事件(殺人や爆破)は、体験している本人にとっては言説化不可能なほど重大な事件でも、人類規模で見れば、言及価値もないほど陳腐。 そもそもこれはフィクションだ。 ▼事件が《事件》であり得るのは、どのレベルの、どんな意味においてなのか*5。 どうせ現実は一つしかなく、物理法則は変えられない。