クリップ:「セルフノンフィクション」


藤井誠二:「「セルフノンフィクション」の授業。愛知淑徳大学で今年もスタート。

 課題は、「ノンフィクション」を書くことなのだが、ノンフィクションの「種類」を大きく二つにわける。一つは、取材対象を「外部」に設定して取材をして書く。もう一つは取材対象を「内部」、すなわち自分自身とする。つまり「セルフノンフィクション」とでも言うべきか。
 タレントの飯島愛さんの『PLATONIC SEX』や、梅宮アンナさんの『「みにくいあひるの子」だった私』、宇梶剛士さんの『不良品』などを例に出して説明するとだいたい理解してくれる。
 映像でもセルフドキュメンタリーが高い評価を受けるようになってきているが、自分にとっての主題を客観視して書き、なおかつそれを「作品」として他者に伝えようという試みだ。上記の本以外に、授業では、ロブ@大月さんや、二本松泰子さんら友人の作品もつかうこともある。
 後者の方を選ぶ学生が多い。書いたものはぼくしか読まないのだけど、不特定多数の人に読んでもらうつもりで書いてほしいと伝える。毎年いくつか秀作がでてくる。




ゼミの教授の知り合いの集まりに行く。」(『だるい話』)

 話の中に潜入取材形式で作られたノンフィクション作品として「自動車絶望工場」「原発ジプシー*1最底辺」などの名が挙がった。 (略) 何かの組織に入って組織員として生活を送りつつその組織についての意見を述べるというのが潜入取材形式というらしい。

 で、ノンフィクションの形式には潜入取材以外にもセルフノンフィクションという形式があるということも知った。早い話が自分の私生活や人生をそのまま書くというやり方らしい。この形式には「五体不満足」のような強烈な物語性が必要だそうな。




かわなかのぶひろ:「セルフ・ドキュメンタリーの現在

 記事の中で、筆者の石飛徳樹は、「自己の周囲を素材にするという方法は、映像の世界では一足先に流行になっている」として、『home』や『ファザーレス・父なき時代』をひきながら、「活字ジャンルにも『セルフノンフィクション』の波が押し寄せる日は近いのではないだろうか。」と結んでいる。
 嬉しかった。
 これまで「セルフドキュメンタリー」は“じぶん語りの映画”という揶揄めいた表現でしばしばさげすまれてきたからである。
 たとえば「自己満足」というと、作者だけがいい気になっているという印象を与えるけれど、「自分が満足しない作品を、他人に見せるのは失礼である」という文脈で受けとれば、きわめて誠実な映画の謂ということもできる。“じぶん語り”のどこが悪い。と言い続けてきた日頃のうっぷんが晴れる思いだった。



何の特殊性もないものを大切に扱う、という姿勢が必要だと思う。
しかし商品としては、「自分は特別なんだ」という作者のナルシシズムに仮託する形で読者を惹きつけるしかないのだろうか。それは、最初から作品の価値を貶める(おとしめる)ことのように思う。
ある体験や事例について、「唯一独自だから、これを大事にしなければならない」という扱いをするのか、「そこに表現されている普遍性にたどり着く」ことを必死で試みるのか。――前者がなければ、後者も起動しないように思われる。


本当に大切なものには、1回性がある。しかし1回性にとどまる限りは、固執する人のナルシシズムにすぎない。



*1:参照