(2) 「認知行動療法ができるカウンセラー、セラピストを養成し、健康保険適応を」(KHJ親の会)

高岡健氏の反論:

 もともと脱落例の多い認知行動療法が、誤って引きこもりの解消のみを目的に適用されたなら、引きこもりを呈する若者たちを、ますます自責的にさせ追い詰めていくことは、火を見るよりも明らかだといえる。 どうしてもこの方法を実施したいのなら、引きこもりを悪ととらえるような「認知の歪み」の修正を、標的とすべきだろう。 (p.145)

最初から社会参加せねばならないことが決まっている認知行動療法が、「社会参加せよ」という規範を強めてしまう危険があるという指摘には、心から同意できる。
ただ、たとえば「どうしても乗り切らなければならない局面」であえて思考停止するために、形式的な思考枠組みに自分を順応させることは有益であり得るし、場合によっては必要だと思う(「解離」を、サバイバルの技術にすること)*1。 「解離のための技術としての行動療法」という使い方はあるかもしれない、と思ったのだが、どうだろう。
高岡氏が本書のあちこちで主張しているような硬直したイデオロギー的発想も、それに順応することでサバイバルできるなら、個人の選択肢としてはアリだと思う。


各人は妙な思想を選ぶことが許されるべきだが、そういう多様性を認めないような方針が全体として選択されてしまうのは困る。 ▼高岡氏の主張は、「多様性を容認するべきだ」という全体性レベルの主張と、「各人がどう生きるのか」という選択の自由のレベルとを、峻別していないように思われる。





*1:あくまで、本人の希望に基づいた選択肢として、という位置づけで。 そうでなければ、「洗脳の技術」みたいになってしまう。