現場と言葉

 こういうことを申し上げると、少しでもそういうことに関わっている人たちは、すぐに「現場」という言葉を持ち出します。 僕らはそういう現場主義を徹底的にばかにしていますけれども、「おまえら現場を知らないじゃないか。現場を見てみろ」というようなことをいい出す人たちが必ずいるんです。 ところが、そういい出す人たちほど、よい現場を持っていない。 よい現場を持っている人ほど、そういう言葉を出さないんです。 僕はこれまでのいろいろな方たちとの付き合いの中で、そういうことが経験的にわかってきています。
 現場を知らないからお前らは黙ってろという言葉自体が、すでに排除や暴力性をはらんでいる。 現場というのはいろいろなことがあるから、いろいろなことが許される。 それに応じて手錠をはめたり、鎖で縛ったり、殴ったり、そんなことが許されるというんですね。 自分自身を許していいという自己正当化の論理が、その中にはらまれている。 ですから「現場」という言葉を口にする人たちに対する、僕自身の根本的な不信感というのがあります。 (p.194-5)

正当化の論理は、誰だって働かせている。
「現場主義をバカにする」という言い方については、きちんと考察し、整理する必要を感じる。

    • cf. 斎藤環氏は、「理論は過激に、臨床は素朴に」をモットーにしているという。 ▼ラカニアンとして、これ以上ないほど抽象的な理論モデルを持っているが、臨床に即して現場的な試行錯誤を続けているということか。



■「子どもと生活文化協会(CLCA)」会長、和田重宏氏の発言

 僕なんかのようにじかに子どもと向き合っていると本を書く暇がないけどなぁ。 とにかく時間がない。 現役の実践者は、実は意外と本を書いてないんですよ。 記録が出ることもまれなんです。 だから、実践が行なわれている現場を記録に残していくのは、実はすごく重要な問題なんじゃないかなと思ってるんですよ。 だって、実践をほとんどやってない物書きの考えだけが先行してるんだもの

難解な理論を口にするかどうかとはまったく別に、現場はすでに理論を生きている。 人がいてそこに何らかの活動があれば、何らかの方針が生きられている。
行政やアカデミシャンが在野の功績を認めないのは論外として、「言葉」と「現場」がお互いに軽蔑しあう状況を、何とかできないものだろうか。




『引きこもり狩り』について 3 へ