「家族と信仰」(p.173-182)

 学校という空間はもっとも鋭く極端なかたちで、言うならば権力関係として、このシステム化を推し進めている。 教師と生徒の関係はほんらい少しも権力的ではないのに、権力関係として出現してくる。(p.181)

教師と生徒の関係は、支援者とひきこもり当事者の関係になぞらえられる。
社会参加していない存在が、社会参加している存在との関係において自分の力をつけてゆくこと、その方向性の問題。
「少しも権力的ではない」という言い方に欺瞞を感じる。 転移関係を含め、むしろそこに機能し得る権力関係を積極的に分析し、論じるべきではないのか。 教師や支援者の立場にある人間が、実際には決定権を持っているのに、その事実をイデオロギーで隠蔽するようでは、かえって抑圧は高まってしまう。 しかもその隠蔽が、当事者への存在承認とセットである場合には、一般社会に見られる政治的威圧と同じ構図ではないだろうか。


いくら「自分たちは信仰ではない」と主張しても、イデオロギーの共有における存在の無条件肯定が機能している限り、それは「宗教的」と呼ぶべきだと思う。 私は、1980年代前半から登校拒否を体験した身として、その後のフリースクール文化(とりわけ東京シューレ的なもの)に違和を感じ続けてきたが、その拒絶の根本的な要因のひとつが、「当事者を承認するロジック」の構図にある。(このように言説化できたのは最近になってからだし、今もまだ試行錯誤の最中だが)

 一月ほど前(1987年5月)、東京下町のアパートで中年の男女が死んでいるのが見つけられた。 死因は餓死であった。 家主さんの話によると、ふたりは二月から家賃が未払いであった。 五月はじめから電気、ガスも料金未払いで止められていた。 やはり五月のはじめ、家賃の催促に行くと、ふたりは布団のなかに寝ていた。 家賃のことを切り出すと、起きようともせず顔だけ向けて、「何とかしますから、もう少し待って欲しい」と答えた。 生活保護を受けたらどうかと勧めてみたが、取り合わなかった。 冷蔵庫はからで、米びつにも一粒の米もなかった。
 これは自殺であり、そして心中である。 (p.182)

20年前にすでにこのような事件があり、注目されていたとのこと。
そもそも「餓死」は、どれほどの頻度で起こっているのだろう*1






*1:統計的に「餓死」に計上されるには、胃の内容物など、かなり厳格な判定基準があったはず。 ▼こちらの記事では、「2000年に大阪市で死亡したホームレス294人のうち111人が「路上死」だった。死因別では凍死19人、餓死8人と推定される」とある。