「支援批評」? 「ヒキコモリ論の分類」?

アカデミズム(知識人)の言葉は、引きこもりの現場ではほとんど役立たない(少なくとも届いていない)。現場の情報は、有意義な形でアカデミズムに届かない。
「苦痛除去に役立つ」という意味において本当に「臨床的」*1な言葉・アイデア・活動を必要としているわけだが、現場の事情に即そうとすると知的な言葉が消えてしまい、知的に語ろうとすると現場情報が消えてしまう。


現場と知性に引き裂かれることに耐えながら考えることが必要なんだろうか、と思いながら工藤定次氏『脱!ひきこもり』ISBN:4939015645 を読んでいる(アカデミックな議論はないが、「現場の手触り」を知りたい方はぜひ読んでもらいたい*2)。


「実践者の葛藤と言い分」と題されたあとがき、全文引用したいぐらい。

 それにつけても“ひきこもり”に関する書物が多くなっている。なぜなんだろう。実践的に前進しているとは思われないし、内容的に深みが感じられるものでもない。なんとも不可思議な現象。
 「皆、時流に乗って金儲けがしたい」のかもしれないが、なんとも浅ましい。ましてや、内容のない本を手にした人は、その度ごとに迷い、考え、沈んでいかざるを得ないし、一般の人々は、ある種の反感を“ひきこもり”に持ってしまうかもしれない。これが恐ろしい。

 よって「状態・状況の克服」の方法論や思考が重要となってくる。だが、克服するための実践的方法論や、思考はほとんど提示されず、いたずらに“ひきこもり”の存在を評している人々のなんと多いことよ。「方法を考え、実践してみろよ、お前ら」と叫びたくもなろうというもの。
 「実践者は不利だ」とつねづね思っている。実践に矛盾はつきものだし、100%の成果など達成し得ない。

 「俺は人生を賭けて、ひきこもりの青少年たちに付き合い、多くを自立させてきた」とも思う。誇りでもある。誇りでもあるが、同時に「俺の人生、ひきこもりに関わるためにだけのものだったんだろうか。ひきこもりに関わっても得るものは少なく、失うものが多過ぎたのではないか。なんともつまらない人生なのではないか」とも思う。
 それでも、歩みを止められないのは、いったいなぜなんだろう。暇になったら考えてみたいと思ってはいる。

 最後に「批判は実践と、方法論を明示せよ」と言いつつ、筆を置く。



これらの言葉に共感するのは、実際に関わった経験のある人間だけなんだろうか。


この現場の手触りとの関係において、僕はどんなことを考えるべきなんだろう。
「引きこもり論はどうあるべきか」について、メタな分析や枠組み設定、あるいは語られている言説のジャンル分け、などが必要なのではないか。


僕は以前、「ひきこもり支援批評?」「情報提供と批評的態度」というlことで、「実際に行なわれている各種支援について、個々の文学作品を論じるように批評すべきではないか」、「でも2ちゃんねる以上の形があり得るかな」と書いたんだけど、そのまま流れていた。
各種支援を考えるだけでなく、「ヒキコモリを論じる言葉」についても、分析的に分類してみるべきだろうか。


先日は、情報公開の必要性も語られていた。 → 「ひきこもり支援者ミシュラン」みたいなものが必要ってこと?


課題山積でつね・・・。





*1:この言葉を使うとすぐに「医学主義だ」「パターナリズムだ」云々と非難される。そういう批判に意味のある文脈があることは承知しているつもりだが、僕は医学・薬学・社会学・文学・政策論・就労支援・・・・と、あらゆるジャンルや活動を参照しつつ、「苦痛除去」を目指そうということ、それを「臨床的」と言いたいだけ。

*2:この本を読んでいる方、ぜひ声かけてください。