「あの人は○○だ」というカテゴリー化について

「カテゴリー差別と嫌悪感」にいただいたコメント(ありがとうございます)より。

id:shinimai 言語の根元的な暴力性を考慮するなら、モテ男という表象もまた問題ではないのか?

「モテ男」というカテゴリーをもとに、差別的に振る舞うことは可能だと思います。 じっさい、相手がたいへん魅力的(強者)で、どうがんばっても責めようがない場合には、良いとされるカテゴリーそのものを実体化=物象化し、差別的に扱って溜飲を下げる人も多い。 (ex.「エリート」「医者」「ブルジョア」等)

 物象化とは、要するに、自分たちがつくりだした結果に対して、あたかも自然現象のように自明かつ自動的なものと錯覚してしまうことだ。



カテゴリー化そのものが悪いのではなく、あるカテゴリー設定に対して、一定の劣った属性を「当然のもの」として前提し、その属性を持つように見えるある個人を、その属性を持っているから悪いのではなく、「その属性を持つ○○だから」悪い、「○○というのは、そういうものなんだ」とすること。 ▼カテゴリーを物象化し、目の前にいる個人を「カテゴリーのうちの一人」とすること。 対等な議論の相手としてではなく、「差別的カテゴリーの具象化」と見なしたうえでバカにする、差別的に攻撃・排除する――こういう態度を問題にしています。*1


カテゴリー化そのものが悪いと言ってしまうと*2、現に働いている差別的暴力の構図自体を問題化できなくなる。 「この人は○○である」という言い方自体がそもそもダメではないか、と言い出すと、逆に抵抗運動が構成できなくなって、「されるがまま」になってしまう。 ▼問題はそのカテゴリーが、苦痛軽減のためにやむなく採用されたものなのか、それとも(たとえ同じ語であっても)差別的に冷笑・攻撃するためのものなのか、ということ。 最初は苦痛軽減=支援のために採用されたカテゴリー化でも、あとになってその枠組みごと差別対象にすることも可能でしょう。


支援においては、相手のカテゴリーは動詞形・関与創造的ですが、差別においては、相手のカテゴリーは名詞形・切断操作です。 私の提起したのは、「人を見るときに、切断操作目線だけで話を進めるのはやめてくれ」ということです*3





*1:差別的であっても、必ずしもネガティブな態度ばかりではない。 差別的に物象化した上で「好きだなぁ」というのも見られる。 された側も、それで必ずしも悪い印象を持つわけではないし、自発的に特権化を望むことすらある。 ▼友愛そのものに酔うタイプの連帯感にとっては、物象化された関係性そのものが愛でられており、相手の存在(弱者や同志)はそのアリバイ=関係性のための道具(フェティッシュ)にすぎない。 → その正しいはずの関係性が維持できない場合には、ナルシシズム破綻の責任は100%相手になすり付けられる。→ 「反革命」の扱いを受ける。

*2:言語の暴力性をつきつめると、デリダ派みたいに「どんな概念やカテゴリーも括弧に入れなければ気が済まない」ということになるでしょうか。

*3:繰り返しますが、その物象化目線は、同時に「支援」を自動的に起動するメカニズムでもあって、だから実際に弱者支援に有益だったりもする。 なのでややこしい・・・。