公私にわたる、「当事者発言」の功罪

番組の冒頭で、永冨奈津恵氏は次のように語っています。

 今回、上山和樹さんをお呼びしたんですけれども、お呼びしておいて言うのもなんですが、実は私は、ひきこもり当事者の方々がしゃべるのに消極的なんです。 最初のうち、90年代ぐらいまでは、すごく積極的に「当事者ほど語ろうよ」みたいな話をしていました。 【中略】 でもここ数年で、一転消極的になってしまった。

  • (1) ひきこもりって、すごく人生に関わっていること。 「自分の半生を不特定多数の前で語るのは、すごい大変なことだ」ということに、それまで気付いていなかった、という反省。
  • (2) まさにいま苦しさの渦中にある人たちが、その苦しさを固めて語る、文章にするっていうことで、その苦しさ自体を塗り固めてしまってそこから出られなくなってしまうんじゃないか、という不安がどうしてもある。
  • (3) そういった当事者の話を聞く側の問題として、これはメディアの問題も大いにあると思うんですけれども、ある特定の一人の個人的な苦しみをみんなが聞いて、「ああ、これこそがひきこもりなんだ」とみんなが納得して――たとえば上山和樹さんがお喋りになったことは、上山さんの「個人的な苦しみ」かもしれないのに、「それこそがひきこもりなんだ」「上山和樹=ひきこもり」みたいなイメージが出てしまうんじゃないか。 ▼第1回目の放送でも私は何度も何度も言いましたが、ひきこもりというのは本当に多種多様なので、今日も上山さんにおいでいただきましたけれども、たくさんあるひきこもりのケースの、「ある一例」というふうに聞いていただければと思います。

ここで永冨氏が語っていることは、問題意識としては妥当なものです*1


これに関連し、一部支援者からは次のような指摘も出されています。

「当事者発言である」というだけで、その内容が神聖視されてしまい、誰も批判できなくなる。

これは、貴戸理恵氏と東京シューレの案件において論題化されていたものですが、やはり妥当な批判というべきです。


以上を整理すると、次のようになります。





*1:私が「属性当事者から課題当事者へ」と論じたのは、(3) の問題意識にかかわることです。