「ヴェルズング――「第三国人」の言語戦略」(田島正樹)

 いまでも、地方の県警本部長たちは、「青少年の健全育成」とか「非行少年の更生」について(「政治団体」とか、私塾とか、民間防犯警察賛助団体などに姿を変えた)ヤクザのボスと定期的「懇談」を持つことがある。

ひきこもり系と非行系はまったく違う存在だが、
地域社会の「自生的秩序」において、ひきこもり系はどのように扱われるだろうか。

 状況のどこに〈友―敵関係〉を構築し、問題をどのような語彙で定式化するかということこそが、クリティカル(天下分け目)である。

表面的な友愛的態度は、鏡像的な関係でしかなく、アテにならないと思う。
(そういう関係こそがトラブルの温床だ)
関係のあり方を理論的に言説化する必要がある。

 政治的言説に関わるとき心すべきは、ナルシシズムにとらわれずに政治的責任を取りきる事でしょう。 だから、「自己正当化」とか「自己批判」などといった小児的ゲームに関わる事はできません。 例えば、もし私が実際に、意図せずにせよ政治的に犯罪的な役割を果たしてしまったとしましょう。 そんな時、自己批判しても何の意味もありません。 もっとも、自己批判という身振りが、政治的状況を好転させる見通しがあれば別ですが。 また、いかに「自己正当化」しようとしても、歴史の法廷に立てば、そんなものは何の意味もありません。 自己正当化の身振りによって、政治的状況が少しでも好転する場合は別ですが。
 マキャヴェリが「己れの魂の救済より、祖国の運命に心を砕いた」人々を讃えたとき、何を考えていたのかが、わかるような気がしますね。 でも実際には、今でも「己れの魂の救済」しか念頭にない人が多いのです。

しばらく反芻したい。