「分析主体(analysand)」

ジジェク為すところを知らざればなり』p.5

しかしながら、本書に「独特の色香」を醸しだしているのは、本書の内容よりむしろ本書が発表された〔=発話作用 enunciation の〕場所である。ユーゴスラヴィアリュブリャナで1989−90年にかけての冬学期に月曜日毎に行なわれた6回の連続講義を収録しているのが本書である。講義はラカンへの入門コースとなった。これを組織したのはスロヴェニア精神分析理論協会であったが、ターゲットは民主化を目指す運動の勢力である「寛容的中立」の知識人大衆であった。言い換えれば、「知っていると想定される」大文字の主人の立場を引き受けるどころでなく、本講義の張本人たる私は自分の聴衆を分析者としてこれに話しかける被分析者として振る舞ったということである。講義全体はあの月日の独特な雰囲気の中でなされた。あらゆる選択が依然として開かれているように見えた「自由選挙」をほんの数週間後にひかえた厳しい政治的発行の時、政治的行動主義と「高尚な」理論(ヘーゲルラカン)と「低俗な」民衆文化の拘束されざる享楽とをかきまぜる「ショート〔=短絡〕」の時――そのようなまたとないユートピア的瞬間も、民族主義−民衆主義の連合が選挙に勝利し、「ならず者の時」が到来した今となっては、終わっているばかりでなく、「消え行く媒介者」のように記憶から消され、ますます見えないものとなっている。

太字部分の原文は次の通り。

…far from assuming the position of a Master “supposed to know”, the lecture acted as the analysand addressing the analyst composed of his public.

analysand」は普通に英和辞書に載っているし、こちらなどでも「A person who is being psychoanalyzed精神分析を受けている人)」つまり「被分析者」となっているけど、ジジェクの依拠するラカン派では「分析主体」と訳されていて、一方的な受動的状態にあるのではなく、能動的要因もそこには含意されていたはず。
≪当事者≫を考える上での参照事項として引用しておく。ちょうど上記のジジェクの叙述は、社会-政治的な環境の中に置かれた「分析主体」の話をしている。