憑依の必要

援交から天皇へ―COMMENTARIES:1995‐2002 (朝日文庫)』p.367-370

ここで重要なのは、確かにチョムスキーは驚くべき数理的業績をあげましたが、そのベースにあるのは一貫して自由を求める実存的希求だった、という点です。そしてその実存的希求が、彼自身のとった政治的行動と極めて緊密に結びついていました。
私はこういう人が大好きです。ノーム・チョムスキーに私はメチャクチャハマりました。変形生成文法もメチャクチャ勉強しまくりました。それは数理的な関心からと言うのでなく、繰り返しますが、実存的な関心からです
私が小室直樹廣松渉に惹かれたのも全く同じ理由です。小室にも廣松にも信じられないほどの教養があります。そしてその信じられないほどの知識量が、彼らの頭の中では主観的に構造化されています。 【中略】
彼らが過剰な教養を持っているのは実存的な核があるからだと私には直感的に分かりました。そういう私自身の直感・実存的インスピレーションから彼らに内在してものを見る――私の身につけた教養はすべてが、チョムスキー型の人間に憑依されて、彼ならどう見るかとつねにシミュレーションして物を見ていた結果です。 【中略】
私は偶然そういう経緯をたどりましたが、そういう知識・教養の身につけ方があることを、多分今の若い人たちは知らないと思います。だから知識の断片だけが集積されがちなのです。私のような憑依を通じた集積があれば、知識は完璧に主観的に構造化されます。
個々の知識は全く問題ではなく、その知識の集積が意味する実存に私の注意は向いています。それは私の今の社会学者としての資質ないし能力を全て決定したと言えます。 【中略】
はっきり言います。内発性がなければ、知識はクズです。何の役にも立ちません。今やそのことは誰にでも直感されているはずです。
最初は誰かにのりうつられることが大切です。この時、個々の知識が間違っている/正しいは全く重要ではありません。(1)かなりの複雑性をもった視線にのりうつられた後、(2)徹底的に内在的に理解し、(3)それを卒業して今度は別の何かに憑依される――。
この(1)→(2)→(3)を数回反復すると、既にその時にはその人自身が、それこそ誰かに憑依される価値のある、かなり複雑な構造体になっていると思うのです。

不安ベースから内発性ベースへ」。
一回のりうつられてメロメロになることで吸収する。そういう対象を欠いている不幸。「のりうつられなければならない」などと考えている間は不幸な自己意識にとどまっている。
ずいぶん前、くだらない馬鹿メールをあるMLに投稿したのを思い出した。転移感情というのは自分と世界とのリアルな紐帯の最後の命綱であって、そこで必死に世界と繋がろうとするのだけれど、言葉はあまりにメロメロで、単に社会的信用を失って終わりだったりする。チープな戯言を乱発して破綻する。「次なる勤勉」に向かわない言説はたぶんその場でラリッてるだけだ。