「お互いにメタに語る」

医師やカウンセラーが、「治療する」という役割に自己を固定してしまえば、相談に訪れた側は「患者」という立場に自分の役割を固定せざるを得なくなり、この固定構造自体がきわめてストレスフルになる。治す側が自分のポジションをメタに語り、患者側も自分の状況をメタに語ることで、「治す」という治療関係そのものが共同的な考察の対象になる。こういうメタ語り自身が、きわめて治療的に機能するのだが、それを欠いた治療関係には、何か一方的な順応主義を感じる*1
「メタに語る」ことは、社会的なものにつながる回路になる。
このことは、「分析に終わりはあるか」(終わりある分析と終わりなき分析)という難問と関わる。
私は、ひきこもりに関しては「治す」という発想ではなく、「取り組む」という発想が必要だと思う。「治す」と考えていると「解決」「終わりある分析」という話を目指すことになるが、「取り組む」と考えれば、終わるわけがない。
支援者からすれば、「治す」のではなく、「社会化する回路を作っていただく」ということではないか。



*1:ただし、メタ語りを拒否し、「患者」という役割に埋没することを望む者も居る(疾病利得?)。