環境としての言語

 Ririkaさんによる「言語の性能」という問題提起から考えたこと。(上から下へ、例によって草稿的)


▼素材(音・文字)が意味を実現する。
▼「印象」のちがいは「結論」の違いではない。(詩や小説)
▼サイエンス論文は何語で読んでも結論が同じだ。
▼抽象的な内容/野生の言語
「ひきこもり」は日本に顕著な現象といわれるが、「日本語」という環境は因果的にどこまで関係あるか。


 言葉が、次の行動を準備する。
 引きこもりにとって日本語の問題があるとしても、日本語を廃止するわけにはいかない。しかし言語の訓練・言語への態度の訓練が効果的かもしれない。
 社会への拒絶感とか、対人恐怖感とか、外界への恐怖とか、すべて「根拠のないものではない」。しかしそこで感じられている絶望感に着手するのに、まずは言語を手がかりにするほかない。(そこには、売りに出された商品が味わうところの「命がけの飛躍」がある。うまくいくとは限らない。だがやってみるしかない。)
 対話的関係や社会参加への促しは、それだけを形式的に押し付ければ説教でしかない。つまり「〜ねばならない」のメタレベルの認識を示しているだけで、オブジェクトレベルで実際に誘惑に成功しているわけではないからだ。メタレベルの認識はそれ自体「誘惑」の要請に晒されている。*1




●大学時代、日本語のうまく話せない留学生といるとすごく楽だった。お互いにうまく言葉が通じない状況。実はこの状況では、お互いにコミュニケーションにすごく注意深くなる。「流暢に話せない」言葉と、「流暢には話せても相手に届かない」言葉。――思うに、日本人同士の会話では、流暢に話せすぎるし、あたりまえに届きすぎる。語っている言葉の前提を確認せずとも通じてしまう言葉は、その言葉の運んでしまう背景的アレコレについてものすごく無批判。言葉が課してくるお互いの位置確定から身動きできない。きゅうくつで息苦しい。(母国語の中で外国人のように語れ、という言葉を思い出す。各人の、固有言語の試み。ぼくらは、お互いに日本語のネイティヴであっても、お互いに外国人であるかのように注意深く語り合うべきなのだ。――といっても、自分にとって聞くに値する言葉を口にする人はあまりいないのだけれど。)


●日本語の環境で日本語を使って生きることに苦しくなっているなら、国語学習が有効かもしれない*2。→ ひきこもり当事者が外国語を学習することに意味があるか。*3


●外国語でひきこもりを論じてみること。それは単に「外国人に伝えたい」ではなくて、外国語の分節化機能を使ってひきこもりを論ずればどうなるか、を検証したいということ。日本語という環境に問題があるとすれば、その問題のある日本語で「日本的なひきこもり」を論じるよりも、外国語で分節してみたい、という誘惑*4。→ 言うほどの意味はあるのかな、という気もする。


●「大事な話は母語でしたい」?――親への感謝の気持ち(あるいは憎悪)を語りたいときなど。 → 電圧が高くて感情と一体になってしまいがちな内容に関しては、外国語で分節する努力をしたほうが距離が取れていいような気がするがどうか。


●「日本語を話す人間に精神分析は必要ない」と語ったジャック・ラカン。彼は「音読みと訓読み」に注目していて、それに興味を持った人たちがさらに日本語論に発展させたようだが、詳しい事情を知らない*5ハイデガーは「哲学はドイツ語でせねばならん」と言ったが、言語によってスペックに相違はあるのだろうか。*6



*1:jouno氏の「コミュニティと自由」参照。鍵は、やはり「強制」ではなく「誘惑」ではないか。「なぜ誘惑されるのか」を考えれば、そこから「無意識的コミュニケーション」への興味も開かれます。

*2:坂口安吾は、精神的にヤバくなってくるとフランス語を勉強したらしい。

*3:しかし、言葉の通じにくい環境に移り住んでノイローゼになって帰国する人も多いとか。

*4:ただし、日本語を母語としない「ひきこもり当事者」もいるか。

*5:詳しい方、います? っていうか、日本語論としては何を読めば? 臨床にどう役立つのかがいまいち分からない。

*6:コンピュータ言語では、たとえばA言語とB言語で実装されるスペックが違ったりするんでしょうか。――ちなみにこの話は、決済手段におけるA設計図とB設計図(たとえば国民通貨とLETS)で社会的意義が違うだろうか、という問題を思い起こさせる。