ひきこもり支援考

 東浩紀さんの決定的な指摘

 批評とは何だったかとか、SFとは何だったかとか、ミステリとは何だったとか、オタクとは何だったか、とかの議論には意味がある。しかし、現在形の問い(引用者注:例えば「批評とは何か」)は限りなく「べき」論に近い。それは、問い(コンスタティブ)ではなく、敵味方を分けるための戦術(パフォーマティブ)でしかない。

 昨日のコメント欄での id:bmp さんのご指摘。

 僕はずっとueyamakzkさんが実践として引きこもりを救う為にできる事を考える立場なのだと思ってたんで。

 ひきこもりとは何か。ということはつまり、それを救うとはどういうことか。――それを考えることがいつの間にか人々を派閥化させる。


 「ひきこもりを救おう」という純朴な試みが、壁にぶち当たりターゲットを見失う中で「ひきこもりとは何か」 → 「真性ひきこもりはどうあるべきか」になるとしたらくだらない。どうあれ、家に残れる人・残りたい人は残ればいいし、出たい人は努力したり援助に頼ったりすればいい。「そんなことで出られる奴は真性ヒキじゃない」などと罵倒するのはその人の自己防衛にすぎない。(というか、絶望の深さなのだが。)


 斎藤環氏や厚生労働省が出している「ひきこもり」の定義*1は、「こういう人たちが私たちの活動のターゲットだ」という「みずからの支援活動の自己規定」にあたる。
 つまり、「複数のひきこもり定義」は、「複数の支援活動の横並び」か。


 私はといえば、最初は直接ご家族から依頼のあった家庭に訪問していたが、次第に「本人に直接アプローチする」ことの強引さ・無力さが嫌になってきた。「僕がダメなら、じゃあ引きこもっている人が興味を持ってくれそうな人を次々に紹介できればいいのではないか」と思って自分以外の人に訪問に同行してもらったり、人的ネットワークでいろんな人を紹介できるシステムを作れないか、などと画策したが、いずれも挫折した。こうした挫折は、ご家族から依頼があって訪問した場合にもちろん顕著だったが、ご本人みずから訪問を依頼してくれた場合にさえ基本的に挫折した。ご本人が僕に会いたい、自分の状況を何とかしたい、と思っていても、それでも挫折したのだ。 → 「こちらが働きかけて何とかする」のではなく、「こちらは勝手に何か面白いことをやって、それに興味を持ってもらう」というスタイルしかないのではないか、と思うようになる。僕はつまり、自分の活動のターゲットについて事前にそれを決めるのではなく、事後になってターゲットが明らかになる、というスタイルを選択していたのではないか、と。
 これはつまり、商品生産のスタイルで自分の活動をせきたてることになる。事前にマーケット予測や「自分の生み出したものの効果」についてある程度の予測はするが、それが本当に社会の一部分の人々の欲望を刺激できたかどうかは「買われてみて」初めて確証できるし、買われない前に「コレを買え」などと宣言しても仕方ない。いわば私の作品が一部の人たちの「欲望する」行動を成功させる。ただし「次の購入」に向けての外的拘束力は何もない。私のよりもいい作品に出会えればその人は新しい方を選ぶだろう。かくしてこの人は自分の欲望の道に進み始める。離陸する。あとは僕は関係ない。ひょっとしたらまたどこかで僕の作品がその人の欲望を刺激するかもしれない。でもそれは確率的なこと。尊重されるべきは消費行動の自由。
 消費行動から撤退していることの多い(特に長期化している場合はそうだ)ひきこもり当事者がどのような商品(といっても例えば学問的成果のように直接商品となるものでなくともよい、とにかく欲望を強くそそられる人的成果や境遇だ)を求めるかは、一般のマーケティング結果とはかなりズレている。というか既存の「ひきこもり」関連商品は、「こういうものが欲しい」という消費者(主に家族)の声を直接そのまま反映したものが多い。私のある友人が、「需要に応じる供給」ではなく「需要を創りだす供給」を唱えていたが、僕の目指すのもそれだ。宮崎駿は自分のことを「ファンの期待に応えるような甘い人間じゃない」と言っていたが、「期待に応える」形の安易な商品生産が飽きられているとして、人々が真に驚くのは「そんな形で自分の欲望が刺激されることがあり得たのか」という体験だと思う。「相手に応える」仕事ではなく、「こちらから刺激してやる」仕事。――「相手に応える」仕事は、その「相手の望むこと」を履き違えると目も当てられないし、そもそも引きこもりでは当事者を家から出したがっているのは往々にして家族だから、「本人の意志」ではなく「ご家族の意志」を叶えることになってしまう。もちろん、「相手を刺激する」仕事も、普通の商品生産と同じで「売れ」なければ目も当てられない。売れ残った商品に社会的生命はない。
 僕に創り出せるものは有限だから、それに欲望を刺激される人はごくわずか。だが問題は「人々の欲望を刺激する」商品や人的成果は世の中に無数にあるわけで、それに向けての「欲望のファシリテータ」役を引き受けるか否か、だ。(ん?いや、「人間の欲望は他者の欲望である」としたら、「欲望のファシリテータ」役は実際につき合いの始まった誰かか。――もんだいはだけど、その「付き合い」に向かう行動を動機付けることなんだけど・・・)


 欲望が出ても、それがすぐに社会参加や経済活動となるかはわからない(というか基本的にほとんどならない)。「本人の欲望」の次にはそれが「他者から求められるもの」になっているかどうかが問題だ。――当り前だが、これは失業者がみんな抱える問題。僕の仕事は、「ひきこもり」を「ふつうの失業者」にすることか。


 ★介護に疲れている人の苦しみが、ひきこもりの周辺で疲れている人の苦しみにすごく近いのはどうしたわけか。本人の自由な発展がなくて、ひたすら不毛な「ゆき詰まり」の支援に耐えねばならないつらさ。老衰や病気による心身のデッド・エンドに付き合わねばならないのが介護の苦しみだとしたら、「欲望のデッド・エンド」に接するのが引きこもり支援。――自分が「欲望の終末期医療」のなかで無駄な欲望の延命治療をしているような空しい絶望感に苦しむ。


 ひきこもり支援においては、「支援サイドの欲望」がものすごく重要なファクターだ。支援者は当事者に何を望むか。どうなってほしいと思っているか。直接支援者(具体的に接しながら支援する人)は当事者自身を欲望できるのか。当事者の存在を欲望できない直接支援者は支援者といえるか。( → 当事者の存在を欲望できないのに彼らを支援するところに苦痛がないか。)


 けっきょく、各人のもつ欲望(愛情生活・倫理的野心)と、その欲望の社会的命運(金はあるか・働けるか)――それだけの話だ。つまり、支援としては、欲望を刺激することと、その欲望のための社会的環境整備。
 けっきょく商品生産とハローワーク職業訓練所、に落ち着くか。


 福祉的意識が「欲望」を対象にすることの難しさ。福祉は「欲望をかなえる」ことではあっても、「欲望を刺激する」ことはまずない。 → 「欲望を刺激する福祉」という新しい発想?
 死にかけの身体を対象にした福祉ではなく、死にかけの欲望を対象にした福祉。
 (「欲望が死にかける」ことは、たぶん人間が人間として生きる上で致命的だ。)