最後に、代表幹事である岡村勲氏の話。

 「刑事裁判を被害者の手に戻せ」・・・・これが、被害者の「権利」の意味だ。
 仇討ち(あだうち)制度というものは、日本では明治15年以降、なくなってしまった。 しかし、犯人を「憎む」心、これは自然の感情であり、これをなんとしても刑事司法に取り入れなくてはならない。
 現在の刑事裁判は、秩序維持という「公益」のためにやっているもので、「私人の利益」のためではない、だから仇討ちは御法度となっている。 しかし、これほどまでに「被害者の居場所がない国」であって良いのか。

 私の妻を殺害した犯人*1は、判決の翌日にサバイバルナイフを買いに行っている。 とすれば、判決を出すだけでその後の対処をいっさい怠っていた裁判所と裁判官の責任はどうなるのか? 結果的には、前の裁判が次の犯罪を生んでいるではないか。
 「一人殺しただけでは死刑にならない」現状、しかも「無期懲役」であっても十数年で出所するという現状では、第2第3の殺人が起きなければ死刑にならない。 ・・・・しかし、最初の裁判で死刑になっておれば、二人目・三人目の犠牲者は出なかったはず。 とすれば、最初の裁判に責任がないか? 
 「お礼参り」に実際におびえている被害者にとって、現状の裁判と行政の対応は、全くあてにならない。 ・・・・自分の身を自分で守れというのか。



大変な熱弁であった。
「応報感情を刑事司法に導入すべき」という見解*2については、考えさせられた。
しかし、あるご遺族が言われていたが、「憎しみ」ではなく≪誇り≫を考える視点も重要か。 ・・・・・・ここは、もっと時間をかけて考えたい。


「裁判を起こすこと自体が犯人側の敵意を買い、報復される恐れがある」というのは、被害に遭った僕の知人も実際におびえていた。 → これは根本的な問題ではないか?




*1:事件は、弁護士として証券会社の代理人を務めた岡村氏に対する逆恨み的犯行だった。 こちらこちらを参照。

*2:しぶやとみこ氏が「被害者の会(NAVS)」幹事を辞任した理由はここにあるらしい。 → 参照