欲望の制度

欲望のあり方が、制度や「多数派」に決められてしまう。労働や力関係に巻き込まれることは、欲望の制度に順応すること*1。正しく欲望しなければ逸脱する。(運動には運動の欲望の制度がある。)
ただし、そのような環境を不愉快に思っている自分自身が、つねにすでに一定の欲望の制度を生きている(すべての制度的欲望から逸脱するという仕方であっても)。完全にひきこもっていても、その強固な状態を成り立たせる実存の制度を生きている。自らの実存の制度が動かないことで、自分と家族を苦しめる。
実存の制度を動かすことができず、周囲の欲望の制度に合流することもできない。
社会参加に成功している者は、自分の実存の制度が、外側の制度のなかで居場所を持ち得た。だから、理不尽であってもその外側の制度を必要とする。▼環境から逸脱したスタイルで欲望制度が固定してしまった者は、そのままでは生きていられない。なんらかのかたちで合流を整備しないと、逸脱だけでは死ぬしかない。





*1:肩書きや病名を得ることで、欲望のプロトタイプと比較される。 「医者」「物理学者」「ひきこもり」「アルコール依存」etc.

硬直したナルシシズムの制度(その連合)


女性がホストに求めるもの

id:font-da 『女性がホストに求めるものは、言うことを聞いてくれることではなくて、いわゆるジェンダー規範に基づく理想の男性(男らしくてリードしてくれる)ではないか、と私は推察しています。男性客が女性ホステスに「たてて欲しい」と思うように、女性客は男性ホストに「たてさせて欲しい」と思うという構造があると感じています。だから、私はイマイチ、ホストクラブに行こうと思いません。ホストを職業とする男性と親しくすることはあっても、ホストクラブでサービスを受けたいとは思わないです。』



女性の多くが男尊女卑を「欲望の制度」として隠し持っているなら、「男性優位主義のフェミニスト」(参照)がいても何の不思議もない。この状況で男性優位思想を批判することは、男女を差別した上で女性を特権扱いすることでしかない。「制度としての平等」は求められていない。 「男/女」を二分化するジェンダー制度を温存したうえで、「女を特権化できる強い男」が欲望されているジェンダーの制度が、欲望の制度にフレームを与えている)。 「女」と「男」のナルシシズムが連合する。異性愛女性を特権化する連合に参加できなかった者は、見下されるか、「存在しなかった」ことになる。
必要なのは、(ここで font-da 氏が一部試みているように)たとえ自分や自分の属性にとって不都合であっても、そこで生きられている欲望の制度について冷徹に分析してみること。





外部社会による制度的排除と、実存の制度

ひきこもっている人間は、硬直した自意識の制度に投げやりになったり、自己卑下的な自意識に閉じこもることはあっても、みずからの「欲望の制度」自身を解体的に分析することはほとんどない。意識の制度は、独りではなかなか変えられない。
実存の制度を問題にすることは、社会制度や構造的排除を問題にするテーブルがまずあって、そのうえで必要になる。構造的排除のテーブルだけを論じることは、その構造的排除を論じる欲望の構造に閉じこもることになる*1。 ▼実存の制度を問題化することは、根性論で力むのとはまったく別の話だ。 (根性論は、独りよがりの自意識の血圧を上げることでしかない。)
ひきこもる意識自身が、硬直したナルシシズムの制度を成している可能性を検討しなければならない*2

    • 宮台真司的な「見下しメソッド」は、うまく機能しない。 少なくとも引きこもりに関しては、自意識を強める形では動機づけはできない。 最初から無理をしている自意識の無理をさらに強要することにしかならず、逆効果になる。 ▼特権化とは別の形の、分析的な(制度換骨奪胎的な)《当事者論》が必要だと思う。私にとっての「制度論」は、そういう話だ。








*1:「社会が悪いんだ!」と言い続ける欲望の制度に順応すること。本人の逸脱的な欲望は、そういう分かりやすい事情をしているだろうか。

*2:cf. 斎藤環「負けた」教の信者たち

ジェンダーと、特定セクシュアリティの中心主義


参照:「フェミニズムと異性愛中心主義:上野千鶴子さんとの対話報告」(小山エミ氏)

以下、小山氏が上野氏に向けた疑問を箇条書きで整理し、引用してみる。

  • 上野さんの発言が彼女自身の意図せざる異性愛中心主義を露呈している。 (略) 「注意深く発言する」だけでは自分の中に潜む異性愛中心主義に正面から向き合うことにはならず、対処として不十分。



「男/女」という異性愛の二分化がジェンダー役割の制度になっているが、その制度のままに「異性愛女性」を抵抗運動の中心にしてしまえば、他のセクシュアリティは抑圧される。男性優位主義に抑圧されるのは、異性愛女性だけではない。
弱者男性も、「男性優位のマッチョ主義」に抑圧され、見下される。しかし「異性愛女性」を中心にするなら、弱者男性は最初から「抑圧する側」か、さもなくば無視される対象でしかない。つまり、「男だから抑圧的」と非難されるか、「男のくせに強くない」と非難されるか。 ▼上野の議論では、異性愛女性以外のすべてが抑圧される。





カテゴリーと逸脱

女性や性的マイノリティであることは「改善されるべき逸脱」ではないので、ひきこもりや発達障害と一緒にすることはできない。しかし、「あるべきとされる姿(制度)からの逸脱」の問題として、次のような点を指摘できる。


ある逸脱の属性を名指して中心化したとき*1、多数派や理念型から「典型例」が標榜される。するといつの間にか政策や抵抗運動がその「典型例」を中心に組織され、名前の付けられない個別的な苦痛や逸脱は置いてきぼりになる。


自分のことを発達障害ではないかと疑っているある女性は*2、複数の医師から「グレーゾーン」等と言われ、診断名がつかないらしい。しかし本人いわく、「名前はつかなくても、現に困っている」。 ▼彼女の場合、むしろ正式な診断名をつけてもらえば社会保障等の恩恵を得られるのだが、診断カテゴリーを得られない(中心的な逸脱を構成していない)ために、制度的対応の配慮を受けられない。ここでは、「まっとうな人間になる」ことの難しさに似て、「まっとうな患者になる」ことの難しさがある。(支援を受けるために、「正常な逸脱」に向けて矯正されるわけにもいかない。)*3


政策や議論が成熟するためには、「ひきこもり」等の属性カテゴリーが必要になる。しかし今度はそのカテゴリーこそが「制度」になり、各人は自分の苦しみがそのプロトタイプから逸脱してはいないか(重症さが足りているかどうか)、悩まされることになる。悩みは、「すき間」的に成立しているし、それにあわせて《動機づけ》も、すき間的に成立するように思う。そういう話を、「診断名」等の制度的議論は等閑視するのだ。


本当に必要なのは、各人が自分の苦しみに自分で取り組むことであり、処遇の制度やカテゴリーは、各人の取り組みが便宜的に利用するためにある。各人の悩みを置き去りにしてカテゴリーが勝手に存在するのではない。
社会運動においては、カテゴリー確保のイデオロギーが優先的に存在してしまい、各人の苦しみのディテールが無視される傾向を感じる。



*1:「女性」「ひきこもり」「発達障害」「摂食障害」「アルコール依存」etc.

*2:今回の私のエントリーは、この女性から多大な示唆を受けた。

*3:このブログでは繰り返し論じていることだが、不登校やひきこもりは、「病気ではない」がゆえに、どんなに深刻でも制度的処遇の対象にならない。また、ひきこもりそのものに限ってみても、「その程度ではひきこもりとは呼べない」など、「本当の支援対象」である「本当のひきこもり」を探す葛藤が始まる(「偽ヒキ」問題)。