特権化のアリバイとしての当事者属性

貴戸理恵は、「コドモであり続けるためのスキル」というのだが、実は貴戸自身は、「こども」としての制度順応に失敗し、「おんな」としての制度順応で社会参加に成功している。つまり、小学校時代に不登校で、思春期以後はずっと社会参加。

 「変なコドモ」として存在するのは、とてもみじめで辛いことだった。
 ところが、だんだん成長して周りから「女」と認識されるようになるにつれ、そういう「コドモパニック」みたいなものは影をひそめ、私はゆっくりと生きやすくなっていった。「奇妙なコドモ」は許されないが、「奇妙な女」ならそれなりに存在する余地がこの世にはあるのだ。弱さ、暗さ、できなさ、うわの空であること、自信がないこと……それは決して美点ではないが、「女」であれば、「コドモ」がそうであるよりもまだ、「ま、アリなんじゃない」とされ、特に排斥されるポイントではなくなる。 (『コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』p.129-130)



貴戸はだから、「コドモであり続ける」ではなくて、「コドモにならせてください」という自己特権化の話をしている。「不登校」「女性」「コドモ」・・・・貴戸はけっきょく、自分を特権化するアリバイを並べ立て、「私を特権化してちょうだい」と言っている*1。それぞれの属性を引き受ける自分の現状への関係分析は為されない。「不登校」「女性」「コドモ」であれば無条件に擁護されるべきとされ、逆らうことが禁止される。――貴戸の議論は、どこまでいってもこういう「属性擁護」の構図をしている。自分や誰かを、その属性に閉じ込めてしまう。▼本当に必要なのは、そういう属性から自由になって自己の巻き込まれている硬直した関係構図(制度)を換骨奪胎すること、そこに風通しを入れることだ。しかし貴戸の話では、「不登校」「女性」といったアイデンティティをアリバイに、特権化のナルシシズムに浸ることが奨励される。この同じ構図を、ほとんどの「当事者」系発言者が踏襲している。

    • アファーマティヴ・アクション」の見地から、特定の属性を特化することはそのつど必要ではある*2。 ▼たとえば現状では、ひきこもり当事者系の集まりは、ほぼすべてが「異性愛男性」ばかりになってしまっている。もともと男性の多いジャンルだし、男ばかりでは女性は参加しにくい。こういう状況では、ひとまず「女性だけの集まり」を特化して作ることが必要かもしれない*3。 ▼同性愛については、ひきこもりの業界ではほぼ完全に不可視になってしまっている。




*1:学者として振る舞うことがその場で優位と感じれば、貴戸は「学者」というアイデンティティで語るだろう。自分を優位に立たせるアイデンティティをそのつど使い分けているのだ。 ▼ただし、そのような振る舞いは貴戸氏に限ったことではない。そもそも「当事者本」企画は、「特別扱い」をしつらえることで成立する。 ex.『「ひきこもり」だった僕から

*2:貴戸や他の論者で問題なのは、都合よく属性特権を使い分けるだけで、それぞれの属性特権について分析しなおす作業がないことだ。ある属性を生きているなら、本人にそのつもりがなくとも、分析せざるを得ない力関係も出てくる。逆に言えば、誰かを「医者のくせに」等と属性で差別して終わらせればいいというものではない。

*3:とはいえ、どうやら「女性だけの集まり」特有の問題もあって、「女性だけの場所にはとても行けない」という女性もいると聞いている。

《制度》としてのジェンダー役割

不登校経験者の集まりで、今のところ「異性愛女性」の多い*1Soui』への参加は、ちょっと印象に残るほどラクだった(参照)。 女性がヘゲモニーを握っていて、「おとこ」扱いされない場が、いかにラクか・・・。*2
しかしこのとき、貴戸理恵だけは「おんな」という制度的役割を演じ続け、そのため自動的に私は「おとこ」にさせられた(男というジェンダー役割を押し付けられた)。 「おんな」というアイデンティティを外されては、貴戸は自分を社会化できないのかもしれない*3
このあたり、上野千鶴子の『脱アイデンティティ』と同じ欺瞞を感じる。上野は「脱アイデンティティ」と言いながら、「おんな」という属性アイデンティティに拘泥しまくっているではないか。貴戸も上野も、「おんな」を差別化した上で、それにかぶせられる不利益のみを取り去ろうとしている。制度的な差別を残した上で、特権性のみを残そうとしている。▼本当に必要なのは、制度的差別そのものを換骨奪胎することではないのか。「おんな」というジェンダー役割にこだわるなら、こちらは自動的に「おとこ」という役割に閉じ込められる。

    • ある人が指摘してくれたが、これと同じことが「親子」にもいえる。「親」という自分の役割意識を押し付けてくる人は、「子」という役割に相手を閉じ込める。「子」「親」という役割意識から自由になることが必要だ。それは単に関係を解消することではない。▼そしてもちろん「子」の側は、この硬直した役割意識に守られている部分もある。赤の他人は、「病気でもないのにひきこもる人」を扶養したりはしない。




*1:【追記】: 「異性愛女性を中心とした集まり」と記していたのですが、特定のセクシュアリティを理念的中心としているわけではないとのことで、記述を改めました。

*2:「女のくせに」というのは「でしゃばりやがって」という意味で差別発言になるが、「男のくせに」というのは、今でも女性がそういう言い方をして、平気で通ってしまうことがある。 「男のくせに」っていうのは、「しっかりしろ」っていう意味だ。本当にしんどい。 ▼【参照】:ミニコミ『Soui』第2号掲載、「男ゆえのしんどさって、なんでそんなにしんどそうなのか?」。 不登校経験者の30代の女性が、同世代の男性にインタビューしている。

*3:これは他人事とばかりもいえない。私は、「ひきこもり経験者」というアイデンティティを外されて、社会参加できるだろうか?

自分の当事者性を捨象する男性フェミニスト

属性レベルで支援の構図が決定される状況では、男性社会の序列はそのまま温存される。
男性フェミニストの多くは、「女を守る」と宣言して男性ヒーローを演じ、他のオスを威圧する。――これは実は、「強い男が女を独占して権勢をふるう」という男性優位思想を、「女に優しい男」がヘゲモニーを取って演じているだけだ。
私に向かって「セックスした女の数」を自慢したある男性フェミニストは、「俺は女の権利を代表しているから、俺を怒らせることは女を差別することだ」と言い放った。実はこの男は女を傷つけた過去があるようだが、そうした「男としての当事者性」は、女の味方をすることで免責されたことになっている。
「相手の女性を数に還元して自慢できる」という、この考え方の構図自体を変えるためには、こうした強者男性こそが《当事者発言》すべきなのだ。そして、「女の数を自慢できる、そうすることで弱者男性を威圧できる」という力関係の制度自体を、変えなければならない。それができなければ、いくらフェミニストを演じようとも、強固なマッチョ主義を演じ続けることでしかない。▼弱者男性だけに語らせようとする「当事者語り」は、考え方の制度を変えない。むしろ、既存の考え方の制度を強化してしまう(キリスト教の「懺悔」のように)。