『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)』

重要な読書体験でした。
ひきこもりに興味があって、東京そのものにほとんど興味がない私は*1、地名等を適当に読み飛ばしつつ、

    • p.46 ヴァーチャルな地元意識
    • p.51 「ニート的」環境をめぐる議論
    • p.208 職能集団の街
    • p.222 もはや「危険な街」は存在しない
    • p.227 都市のセキュリティ化の背景、 ゴミ出し問題と環境管理
  • 地域性のヴァーチャル化
  • コミュニティや生き方の「多様性」を擁護する方向と、人間工学によって環境の「安全性」に配慮する方向との相容れなさ

が印象的。





*1:とはいえ、この本が東京のガイドブックになりそうです。

第V章は、これからくり返し読書や議論のガイドにすると思う。

少し引用。(p.252-5)

 (『家族、積みすぎた方舟』の著者マーサ・ファインマンは、) 親密圏としての家族を徹底的に脱構築しつつ、ケアの与え手と依存者との関係性の場、養育単位としての家族というものを再構築しようとしている。
(中略)
 リベラリズムと家族との関係についても、野崎綾子さん*1の『正義・家族・法の構造変換』のように*2、問題の複雑さをそのものとして受け止めようとした仕事もあります。 野崎さんの議論は、「家族とは愛情を煽るイデオロギー装置だ」という議論と、「家族内にまで権利などを持ち込んでしまったら、家族の意味はなくなってしまう」という議論とのあいだで、考えるべきことはキチッと考えよう、というものです。

 ジェネレーションという問題を考えたからといって、家族を正義の及ばぬ絶対不可侵の領域とするつもりもないし、実体化するつもりもない。 『正義論』第三部と「公共的理性の観念・再考」のあいだでロールズの家族観に大きな変化があったとは思いませんが、家族という親密圏の位置づけの難しさをロールズ自身があらためて確認している、という感じがします。




著者の二人には、大まかに次のような対比がある。

東浩紀北田暁大
共感可能性正義の再記述
ローティロールズ
動物性再帰性
偶然価値
事実権利



東氏が「存在」、北田氏が「言葉」。

もうひとつ、その両者が交わる症候という契機が必要だと思う*3









*1:はてなキーワードに、「1971年生まれ−2003年没」とある…

*2:cf. 佐藤俊樹氏による書評: 制度から探る公私の境界

*3:宮台真司氏の動機づけのロジックにも、《症候》という契機(それにまつわる事後性の要因など)が決定的に欠けていると感じる。

「リベラリズム的」(北田暁大)

ものすごく濃縮された説明的メモ。
リベラリズム」という言葉はいろんな意味で使われるのですが、

 (1) 「善にたいする正の優先」を掲げる規範理論(哲学)としてのリベラリズム
 (2) (第二波以降の)フェミニストが批判してきた(理念型的?)「近代自由主義
 (3) いわゆる「新自由主義

問題は (1) で、 「善」は個人的な価値選択の問題。 「正義」は制度的・公共的な話。





「家族、積みすぎた方舟 P288〜293」

sava95 さんによる抜き書き。

 家族が家族である必要をもちつづけるのは、それが依存的な存在をかかえこむからではないのか? 家族は「性的な絆」であるよりはもっと、「ケアする絆」ではないのか? (略)
 「子ども」とは「病人、高齢者、障害者など」のすべての依存的な存在を含んだ「必然的な依存のあらゆる形態」を代表する象徴的なメタファーであり*1、「母親」とは「ケアの担い手」の代名詞にほかならない。 (略)








議論の雛形と宿題

著者のお二人が試みたのは、ものすごく独特の「当事者語り」に見える。 個人的な体験や執着心が理論的な話と往復し、議論の強度を生んでいる。 「こんなふうに感じる自分はどんな場所に住んでいるのか、これからどうなってゆくのか――どうするつもりなのか」。 ▼地理的な固有名だけでなく、さまざまな私的事情をこの議論の雛形に当てはめればいいのだと思う。
私の宿題は2つ。

    • 「ひきこもりの心理的地図」は、どういう事情になっているか。 居住地域にそこまで思い入れはあるか。 ▼私は神戸・三ノ宮について、ほとんど駅と本屋しか知らない。 外界に対して、目線が萎縮している。
    • 阪神大震災直後の異様な都市体験。 ▼震災一ヶ月後に神戸から京都に向かったのだが、潰れた家屋や斜めになったビルを見続けた後、整然とまっすぐに立つビル群を見て無性に腹が立った。 「阪神間は潰れているのに」というのみならず、「きちんとしている街」そのものへのどうしようもない苛立ちだったと思う。