第V章は、これからくり返し読書や議論のガイドにすると思う。

少し引用。(p.252-5)

 (『家族、積みすぎた方舟』の著者マーサ・ファインマンは、) 親密圏としての家族を徹底的に脱構築しつつ、ケアの与え手と依存者との関係性の場、養育単位としての家族というものを再構築しようとしている。
(中略)
 リベラリズムと家族との関係についても、野崎綾子さん*1の『正義・家族・法の構造変換』のように*2、問題の複雑さをそのものとして受け止めようとした仕事もあります。 野崎さんの議論は、「家族とは愛情を煽るイデオロギー装置だ」という議論と、「家族内にまで権利などを持ち込んでしまったら、家族の意味はなくなってしまう」という議論とのあいだで、考えるべきことはキチッと考えよう、というものです。

 ジェネレーションという問題を考えたからといって、家族を正義の及ばぬ絶対不可侵の領域とするつもりもないし、実体化するつもりもない。 『正義論』第三部と「公共的理性の観念・再考」のあいだでロールズの家族観に大きな変化があったとは思いませんが、家族という親密圏の位置づけの難しさをロールズ自身があらためて確認している、という感じがします。




著者の二人には、大まかに次のような対比がある。

東浩紀北田暁大
共感可能性正義の再記述
ローティロールズ
動物性再帰性
偶然価値
事実権利



東氏が「存在」、北田氏が「言葉」。

もうひとつ、その両者が交わる症候という契機が必要だと思う*3









*1:はてなキーワードに、「1971年生まれ−2003年没」とある…

*2:cf. 佐藤俊樹氏による書評: 制度から探る公私の境界

*3:宮台真司氏の動機づけのロジックにも、《症候》という契機(それにまつわる事後性の要因など)が決定的に欠けていると感じる。