どんな人間関係を維持するのであれ、その場に特有の「力関係」に苦しむことになる。
この問題から逃げられる人間集団はない。
ひきこもり系の人間は、どこにいても、自分を政治的に成り立たせることに失敗する(家の中であっても)。 ひきこもりの社会復帰支援とは、政治のやれない人間を政治の中に放り込むことに相当する。
サバイバルのためには、自分を組織する指針が要る。 それは、家を出るとか出ないとか以前に、「頭が真っ白になってわけがわからなくなる」という苦痛のために。
経済的自立は、政治的自立の一部分だと思う。
TBS 文化系トークラジオ 『Life』*1 1月27日 「『働く』ということ」
生放送分+終了後の「外伝」が、podcasting で聴けます。
「Part5(外伝2)」*1冒頭で、私の投稿メールを読んでくださっています*2。
私にとっては長期的な論点なので、以下にその文面をアップします。
「働くうえで、いま最も必要とされていること」*3ですが、私は、
精神論とは別の形での、 《大切なトラブル》 だと思います。
ひきこもりに関連して、何度か大学の授業にお招きいただいたことがあるのですが、次のようなお話をよくしています。「皆さんはいま、進路に悩んでおられると思いますが、仕事に就けば、100%必ずトラブルが起こります。 ということは、仕事を選ぶということは、《トラブルを選ぶ》ということ。 だから、『どんな仕事にやり甲斐があるだろうか』と悩むよりも、『どんなトラブルだったら耐えられそうだろうか』と悩むほうが、頭がいいと思うよ」。
授業終了後の感想文では、この話を書く人がいちばん多いです。
1月13日の放送で鈴木さんが、「どうしても失いたくないものを見つけてしまったときに、人は初めて宿命と向き合うことができる、それを成長と呼ぶ」とおっしゃっていましたが(本当に感銘を受けました)、あのお話が、ここに関係してくると思います。 強い執着がないなら、わざわざトラブルに耐えてまでその場に居とどまる理由がない。――それは、精神論ではないと思うんです。 本人にとっての、ある種の必然性の問題です。
よく人間関係が大事だといわれますが、人間関係は、それ自体がトラブルの温床です。
「なぜこの関係を続けるのか」は、「なぜこの人と揉め続けるのか」に等しい。
「人間関係がなくなって、機械的労働に従事できれば、そのほうが楽かもしれない」というのは、コミュニケーションを絶つ方向にいった人が一度は考えることだと思うし、よく話題に上ります。 古い労働運動では、疎外の要因は《単純労働》とされ、もちろん今もつらいのですが、現代ではむしろ《人間関係》が、ひどい疎外要因になっています。
働けば必ず人間関係があるし、トラブルに付き合い続ける必要がある。 多くの人がそこで意味不明の決断主義や精神論を持ち出すのですが、私は、「そのトラブルには大切なものが賭けられている、だから言われるまでもなく自分は戦うんだ」という、口にできないような要因が、どうしても必要だと思うのです。 それを欠いたままいくら思想や人間関係を作っても、ちぐはぐで偶然的な話ばっかりになる。 そもそも、なんでトラブルに耐える必要があるのか。 辞めればいい。――と言ってるうちに、この世のすべてが「耐えがたい偶然的なトラブル」にしか見えなくなる。 その脱落の果てにあるのが「ひきこもり」というのも、間違っていない説明だと思います。 ガラクタの中でトラブルだけがあるというのは、耐えられない。
「生活のためだからしょうがない」という言い方の背後には、「支えるに足るだけの生活」が前提されています。 その実感はどこから調達したのか、ひきこもりに批判的な人は無自覚で、話がほとんどかみ合いません。
大切なトラブルを生きられていれば、そこに必要な関係も結べるし、その周囲で「大切なものを守るための」努力もできる(専門性*4)。 それに応じて、どの程度の流動性が自分に必要なのかも、判断できるのではないでしょうか。
――というわけで、自分の切実なリアリティに関係した形での、《大切なトラブル》です。 それがすなわち「働くこと」になっていれば、生きていけるのではないか・・・・というような。
放送では読まれていないが、このあとに次のような追記を記していた。
今回のゲストである本田由紀さんが、労働力市場における「鎧を身につける」という表現で、《専門性》の話をされています。 私も大賛成なのですが、その専門性にどうしても必要なのが、「こだわり(執着心)」ではないでしょうか。 自分が専門であるはずのジャンルについて、いくらいいかげんな話を聞かされても腹が立たない人は、自分の状態についても無頓着だろうし、「競争」以前に実存レベルで「専門家」として成り立たないと思います。 要するに、その問題に対して愛がない。 ▼問題となっていることの微妙な違いに執着できるこだわり、あるいはその「目利き」の状態というのは、どのように調達できるのか。 親の存在、本人の資質、仲間の存在、などが考えられると思いますが、これも外部からの粗暴な精神論(「こだわりを持て!」)では、無理だと思います。 ▼「何歳になっても再チャレンジできる環境の整備を」という本田さんの制度的な議論はぜひ必要だとして(くり返し支持したいです)、一方で、専門性を継続的に構成するための実存的な事情について、議論が必要だと感じています。
放送内の言葉で言えば、ここで私は「縦軸」の難しさを問題にしている。
縦軸と横軸
番組終盤に、次のようなやり取りがある(大意)。
- 聴取者メール(ウツボスキーさん)より: 進むべき目標のようなものを「縦軸」とするなら、その縦軸がなくなって、人間関係など「横軸」ばかり見ているような気がします。 息苦しいったらありゃしない。
自分がバラバラになることを阻止する「抽象的なもの」は、症候的な論点といえる。 少なくともそのテーマでだけは、理由付けの前にトラブルを維持する動機づけができる(ほかのことなら別にどうでもいい)。
鈴木謙介氏は、その縦軸は「一人では無理」というのだが、私はさらに「恣意的には決められない」を加えたい(「症候を自分で決めることはできない」)。 動機づけは、実際に生きられているものを後から基礎付けなおすことができるだけで、外側から意識的に押し付けることはできない(たとえ自分でそのように思い決めても)。 逆に言えば、再帰的に選び直すより前に選んでしまっている。
症候的で antagonistic(敵対的)な論点は、多くの人が「愛」と呼ぶものではないかと思う。 (「生きていくためには何でもする」というとき、支えられるべき「生活」に、症候的な愛着が語られている*1。)
本田由紀氏が言うような制度的整備にはくり返し支持を表明した上で、そのうえで、「何かを意識的に愛することはできない」という難しさについて、考えるべきだと思う。 文脈上それを愛することができればどんなに好都合でも、ポーズ以上のものにはなり得ない・・・。 生活努力のすべてが根拠を失い、バラバラに崩壊する(「自分はここで何をやっているんだろう?」)。
「意識で選ぶより前に選んでいた」ものをしか、愛せない。
何を選んでしまっているのか、気づく必要がある。 (抑圧して忘れている)
それに気づくのが、偶然の出会いではないか。
「取り組んでいるうちに、愛着が芽生えてくる」*2まで含めて。