番組終盤に、次のようなやり取りがある(大意)。
- 聴取者メール(ウツボスキーさん)より: 進むべき目標のようなものを「縦軸」とするなら、その縦軸がなくなって、人間関係など「横軸」ばかり見ているような気がします。 息苦しいったらありゃしない。
自分がバラバラになることを阻止する「抽象的なもの」は、症候的な論点といえる。 少なくともそのテーマでだけは、理由付けの前にトラブルを維持する動機づけができる(ほかのことなら別にどうでもいい)。
鈴木謙介氏は、その縦軸は「一人では無理」というのだが、私はさらに「恣意的には決められない」を加えたい(「症候を自分で決めることはできない」)。 動機づけは、実際に生きられているものを後から基礎付けなおすことができるだけで、外側から意識的に押し付けることはできない(たとえ自分でそのように思い決めても)。 逆に言えば、再帰的に選び直すより前に選んでしまっている。
症候的で antagonistic(敵対的)な論点は、多くの人が「愛」と呼ぶものではないかと思う。 (「生きていくためには何でもする」というとき、支えられるべき「生活」に、症候的な愛着が語られている*1。)
本田由紀氏が言うような制度的整備にはくり返し支持を表明した上で、そのうえで、「何かを意識的に愛することはできない」という難しさについて、考えるべきだと思う。 文脈上それを愛することができればどんなに好都合でも、ポーズ以上のものにはなり得ない・・・。 生活努力のすべてが根拠を失い、バラバラに崩壊する(「自分はここで何をやっているんだろう?」)。
「意識で選ぶより前に選んでいた」ものをしか、愛せない。
何を選んでしまっているのか、気づく必要がある。 (抑圧して忘れている)
それに気づくのが、偶然の出会いではないか。
「取り組んでいるうちに、愛着が芽生えてくる」*2まで含めて。