新宮一成『ラカンの精神分析 (講談社現代新書)』 p.301-2

強調は引用者。

 ラカンは、パリ・フロイト派設立の年のセミネールで、絶えず精神分析経験に立ち返るべきことを強調している。 新しい会員たちに彼が期待したことは、彼の難解な語りを、知的な道具を用いて読み解いてくれることだけではなかった。 彼と彼らとの間で取り交わされる言葉は、精神分析の語らいという、他のものとは異なった社会的紐帯を形成するものでなくてはならなかったのである。
 その紐帯の存在理由はどこにあっただろうか。 それはおそらく、この科学という時代の中にあって、「愛」について話し続け、「愛」と呼ばれているものの中身を、新しく作り変えることであった。 分析家の語らいは、不可能なものの方向に向けられている。 そして、「愛」というものは、不可能の印を含んでいる。 「愛とは、持っていないものを与えることである」というのは、ラカンの有名な定式の一つである。
 臨床的活動が時に驚くべき認識の変換を人に与えることはあるだろう。 しかし臨床的活動は、すでに社会人としての責任を負うことのできる立場を確立した上でないと、本来は行なうことのできないものである。
 精神分析は、自己の起源に触れる欲望に導かれて行なわれるものだ。 その欲望は、人が社会的責任を身につけるまで待ってくれるわけではないのである。 そしてその欲望の導きの結果、あの不可能な他者の場に立つことを習い覚えてしまった者はどうすればよいのだろう。 彼は、疎外された者(アリエネ aliéné)になる、すなわち精神病者(アリエネ aliéné)のように扱われる。
 自分は精神病者の立場に立った人道的な精神科医であると公言して管理社会を告発する人物は大勢いる。 しかしそういった人物たちによるヒステリー者の語らいの中に、彼は加わりたいとは思わないだろう。 彼は心理学者でもなく医者でもない。 彼の正しさを保証してくれる社会的存立基盤を、彼はどこに求めたらよいのだろう。
 ラカンは、医学にも心理学にも吸収されない純粋な精神分析経験が構造的にありうると主張し、そしてその経験の結果を認める組織が社会的に存在することを求めて、パリ・フロイト派を立てたのである。 彼の立てた学派は、単に精神分析の理論上の一流派であってはならなかった。 それは、科学の主体の成立に伴い、論理的に要請されてくる一つの言語活動の実践の場と、その実践に伴って他者と化してしまう主体たちのための生きる場を、この世に与えるものでなくてはならなかった。

物理学・社会学などの「科学(science)」における主体ポジションの成立と、「精神分析(psychanalyse)」におけるそれと。
個人における「ひきうけ」のスタイルと、人間関係の紐帯の作られ方。







「制度 institution」

三脇康生氏の論考「精神医療の再政治化のために」に付された注より引用*1

 「フランス語の institution という語の用法は次の二つに大別できる」と教育学者の岡田敬司は言っている。*2

  • (1) 子供を教育する行為、家族を設定する結婚の行為、ある集まりやある規則を設定する行為 action d'instituer などが institution (設定・設立・制度)と呼ばれる。
  • (2) 抽象的、普遍的な規範、あるいは具体的な社会機構、社会組織など、設定されたもの chose instituée が institution と呼ばれる。

 日本では二番目がよく知られているがフランスではむしろ一番目がよく知られているとしている。 そして、制度のことを考える目的は、「制度を生きたもの」にし、「永劫不変の真理に腰をすえるよりは刻々の意味の生成に立ち会おうとするものである」としている。

この「制度 institution」理解が、ジャン・ウリ、フェリックス・ガタリらの唱道する「制度論的精神療法」に関わるらしい。
ラカン的な「分析の語らい(discours analytique)」と、ガタリ的な「制度論的分析(analyse institutionnelle)」の相違とは。







*1:ガタリ他『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』p.141掲載

*2:以下の引用は、日本教育社会学会『教育社会学研究』43 (金子書房1988年) pp.123-135、岡田敬司氏の論考から と記されている。

《享楽(jouissance)》――欲望の倫理

モバイル社会における技術と人間」(『Kawakita on the Web』)、斎藤環氏の発言より。

  • この幻想に対抗できるものがあるとすればラカン的な倫理がある。
    • ラカンは「罪があると言い得る唯一のこととは、(中略)、自らの欲望に関して譲歩したことである」と言っている。
    • 我々の欲望は最大公約数的な快感に代替されてしまっているところがある。 我々はあるレベルの快適さを得ているが、本当にそれで満足していいのかという問い。 そこで初めて平均化された快楽の中で自分の個別性が問われることになる。
    • スマート化がもたらすものは「快楽(plaisir)」。 緊張を解放する快感のレベルまではシステムが提供してくれる。 ラカンはその先に「享楽(jouissance)」を見出す。 それは苦痛も孕むが強烈な体験。 そこにこそ個別性・固有性がある。
    • 「享楽」は決してシステムは提供できないことを認識しておけば、自分の欲望が本当に満たされているのかという懐疑は維持できる。

ここでは、ラカン的な倫理の根幹をなす《欲望》が、「快楽(plaisir)」ではなく、「享楽(jouissance)」の道行きであることが説かれている。
《享楽》は、致死的な領域であるとされる。







《日常》 と 《享楽》

新宮一成ラカンの精神分析 (講談社現代新書)』 p.302 より引用(強調は引用者)。

 精神分析は、自己の起源に触れる欲望に導かれて行なわれるものだ。 その欲望は、人が社会的責任を身につけるまで待ってくれるわけではないのである。 そしてその欲望の導きの結果、あの不可能な他者の場に立つことを習い覚えてしまった者はどうすればよいのだろう。 彼は、疎外された者(アリエネ aliéné)になる、すなわち精神病者(アリエネ aliéné)のように扱われる。



ここを読むたびに、阪神大震災の被災直後に経験した、大学院の面接試験を思い出す*1
精神分析の講座を開講するその試験官は、震災についての見解表明を求めてきた。
私は、ハイデガー的な《日常》について語りだした。
「水道の蛇口をひねっても、水が出なかったんですよ。・・・・・水が出ないっていうのは、それはつまり、《日常》が壊れちゃったんですね。 日常が、ニチジョウが・・・・」
語っているうちにろれつが回らなくなり、目の焦点が合わなくなるほど興奮してきた。 何をしゃべったのか、意味のあることをしゃべっていたのかすら覚えていない。 何しろ「日常が壊れた」について話そうとしたら、将来のかかった大事な試験中だというのに、興奮してわけがわからなくなった*2
ようやく興奮状態を抜け出て、ふつうの語りに着地しようとした瞬間、
「はい、だいたいわかりました」
言われて絶句し、試験官の顔を強烈に凝視。
呆然とし、何も言えなくなってしまった。
うながされるままひょろひょろと立ち上がり、面接室を出る。
――これは、まぎれもない「短時間セッション」(『ラカンの精神分析 (講談社現代新書)』p.70〜)だったのだと思う。
面接室に同席していた哲学の教授たち*3は、狂人を見るような目で私を見ていた(としか思えなかった)。
そのせいだったのかどうか分からないが、試験は落ちた。



*1:拙著 p.77-8で、少しだけこのときのことに触れている。

*2:その興奮状態は、震災直後に経験した「異様な自由」と通じている。 ▼ラカンのいう「享楽(jouissance)」の経験であったことは間違いないと思う。

*3:一次試験を哲学で受けていたので。