岸政彦氏のブログ 『sociologbook』 の

「041030」 のエントリーより*1
記事に直接 TrackBack が送れず、かつ過去ログが読めなくなってゆくようだし*2、全体に重要な指摘があふれているので、失礼かもしれませんが太字・赤字強調を勝手にほどこしつつ、ほぼ全文を引用させていただきます*3

    • 【2008年3月19日追記】: 以下のエントリーで私は、静態的な「カテゴリー化」を肯定的に語っていますが、その後のいきさつから、これが左翼による差別や暴力の温床になっていることに気づきました。 ある属性を持った人たちをカテゴリー化して擁護する身振りは、「自分は正義なんだ」というアリバイナルシシズムをもたらし、自分たちだけは差別発言が許される、という勘違いを生むようです*4。 ▼差別に抵抗するために本当に必要なのは、誰かをカテゴリー化して自らの正当性を担保することではなく、過去や現在の自らの事情を分析することであるはずです。 「反差別」の掛け声で結託する人たちの暴力は、プライベートな場面で差別を量産しています。




 上山和樹氏@はてなから引用。

ひきこもり当事者は、

  • 「閉じこもる自由」を求めるとともに、
  • 「閉じこもるしかできない不自由」を壊さねばならない。



上山氏は「降りる自由」と「乗れない不自由」について語っている。 すぐに思い出されるのが金泰泳の好著 『アイデンティティ・ポリティクスを超えて』*5だ(個人的には『ソシオロジ』に掲載された論文の方が好きやねんけど)。 在日コリアンの複雑で微妙なアイデンティティのあり方が、地道なフィールドワークから得られた数多くの語りから、丁寧に分析されている。 印象的なのが次の言葉。 

 たしかに従来の民族的アイデンティティが、個を抑圧する機能をもちあわせていたこともまた事実であり、そこからの脱却は重要なことである。 しかし、集団的アイデンティティの「必要性」までも否定することはできないはずである。 否定されるべきは、必然的(所与的)アイデンティティであり必要に迫られた「戦術的アイデンティティ」は、むしろ積極的に擁護すべきではないのだろうか
 在日朝鮮人という人間分節の実在性を否定してしまうと、現実の差別や暴力を生み出す構造が温存される。 抵抗し異議を申し立てるには、この分節に依拠し内部の連帯を打ち固めねばならない解体すべきものに依拠せざるをえない在日朝鮮人は、民族を<実在>と捉えるか<構築>と捉えるかの困難な選択を迫られることになる。(132頁)



この短い文章には複雑な意味がある。 ここで「解体すべきもの」とは言うまでもなく在日コリアンアイデンティティや運動ではなく(当たり前だ)、民族というカテゴリーで暴力的に人間を振り分けていく思考法だ。 しかし、反差別運動はこの民族カテゴリーそのものに依拠せざるをえない。 ところで、こうした民族的なカテゴリー化は、すでに日本社会に根付いている在日の3世や4世にとっては、その多様な生のあり方を、ある意味で「狭める」ものとして機能する。 だからといって、民族カテゴリーを単に「構築されたもの」として否定して個々バラバラになってしまうと、引用文にあるように「現実の差別や暴力を生み出す構造が温存される」


説明がどうしても長くなってしまいますが。 ここで「戦術的アイデンティティ」っていうのは、まあ簡単にいえば(在日という生に基盤を置きながらも)より柔軟で抑圧的でないような運動とアイデンティティのあり方です。 要するにこういうことです。 金泰泳は、「在日として生きる自由」と、「個として生きる自由」を両方得るためにはどうしたらいいか、と考えて、より「戦術的」で柔軟なアイデンティティのあり方に可能性を見いだしている。 実際にはみんなこの両方を「すでに生きている」んだけど、まあいろいろ難しい問題があるわけで(詳しくは本書を参照)。


「社会的に否定的なもの」─誤解を招きかねない表現だけど─、弱者やマイノリティといってもいいし、被差別者、スティグマやネガティブなラベルを付与されたもの、どう表現してもいいんですが、そういう人々っていうのは、より困難な生き方を強いられることがある。 例えば、民族的少数派が、差別的な民族カテゴリーを否定しながら、その民族カテゴリーに依拠して運動とアイデンティティを展開せざるをえないこともそうだし、ひきこもりの人たちが、「降りる自由」と「参加する権利」を同時に達成していこうとするのも、似たようなことなのかもしれない。


そういえば、被差別部落の解放運動でも、一方で、水平社的な「外に向かって自らの出自を誇る」という運動戦略と、他方でプライバシー保護、例えば興信所などを利用した身元調査への反対運動とが同居しているのだが、一見すると矛盾するようでも、それはそういうやり方でやっていくしかない


例えば「差別されるのが嫌なんだったら、帰化すれば?」(=日本人になれ)という言説と、「ひきこもりとニート自衛隊に入れるか強制労働させろ」(=働け、社会参加しろ)(上山氏はこれを「人権尊重と人命尊重」という言葉で分析している)っていう言説の同型性。


「今のままの姿でいる権利」と「そこから脱却する権利」を同時に要求すること。 考えてみると、在日や部落やひきこもりだけじゃなくて、ホームレスの強制退去の問題とか、摂食障害と医療との関わりとか(強制的に治療すべきか?)セックスワーカーの「自己決定」と「性的搾取」のこととか、いろいろつながってくる。





今の時点でこの問題の射程を極め尽くすことなどできないし、今後繰り返し立ち返ることになると思う。 いわばずっとあたためてゆくべき、取り組んでゆくべき課題というか。
以下、思いついたことを少しだけメモしておく。







*1:こちらでお願いしてあった件です。 どなたからもレスポンスなかった…(泣)

*2:誤解でしたらごめんなさい

*3:問題があればご指摘ください。

*4:それは、公の場所では隠蔽され続けます。

*5:ISBN:479070792X

弁証法?

アイデンティティ」は、差別の温床になり得るし、個人の自由を制限する機能をも持ち得るから、否定すべき。

  • 「○○のくせに!」【カテゴライズゆえの差別】、 「お前は○○なんだから、××でなければならない」【逸脱しないよう、いつの間にか縛りをかけている*1】、 など。


しかし、ひきこもりやニートというカテゴリーを、単に「恣意的・差別的に構築されたもの」として否定し、≪当事者≫がバラバラになってしまうと、現実の差別や排除を生み出す構造が温存される。

  • 「引きこもっている」あるいは「かつてそういう状態にあった」ことを隠さねばならない ―― さもなくば差別される ―― という状況は、みんなが「隠す」ことを続け、各人が(お互いに気付くこともないまま)分断され続ける限り、なくならない。 ≪ひきこもり≫というカテゴリーによる自己規定を 「忘れよう」 「無視しよう」 とするだけでは、≪ひきこもり≫への差別的な待遇は、改善されない。 当該各人が「ひきこもり」というカテゴリーを身に引き受け、その上で ―― できれば協力し合って*2 ―― 「差別的暴力」と戦う必要がある。
    • → 「自分をアイデンティティに縛りたくない」という上記テーゼと矛盾。


だから、差別的かつ拘束的なカテゴリーを否定しながら、そのカテゴリーに依拠して運動とアイデンティティを展開せざるをえない。

  • 「ひきこもり」「ニート」が差別的蔑称として存在するとすれば、そういう差別的カテゴライズには抵抗せねばならない。 しかし、「ひきこもり」等のカテゴリーそのものを拒否し否定してしまうと、差別的排除の実態を問題にし、現実の暴力に抵抗することそのものができなくなってしまう
    • → 「ひきこもり状態を脱し、命の危機を回避するにはどうしたらいいか。そのための方策は」と、≪ひきこもり≫という状態像に留まることを否定しながら、同時に「ひきこもる権利は認めるべきだ。それは犯罪ではない」と、≪ひきこもり≫という状態像への差別的・排除的暴力に抵抗しなければならない
    • こうしたアクロバティックな言動は、≪ひきこもり≫というカテゴリーを設定することなしにはあり得ない。 → 「差別的」というのとはまったく違う、「より柔軟で抑圧的でないような運動とアイデンティティ」(戦術的アイデンティティ*3が必要。








*1:いわゆる「偽ヒキ」問題が典型。 → こちらこちらを参照。

*2:ひきこもりの当事者は「人間関係を作れない」ので、≪一緒に闘う≫のが極端に難しいのだが。 ちなみに、何人かの知人から、「ひきこもりには親の会という圧力団体(?)があるから叩きにくいが、ニートにはそれすらない、だからマスコミに言われ放題なのではないか」という声を聞いた。 なるほど…。

*3:上記引用文より

「権利」? 「自由」?

  • 「今のままでいる権利」はともかく、「そこから脱却する権利」という言い方に少し抵抗がある。 民族差別の話とはディテールが違っていて当然だが、「ひきこもりからの脱却」については、「訓練機会や豊富な選択肢を通じて、社会参加に再チャレンジできる」という要因が中心。 → 「脱却する自由」と言ったほうがしっくりくるような…。
    • いや、でも「ひきこもりの状態」や「履歴書の空白」への≪差別≫があって、「挑戦機会自体が事実上剥奪されている」と考えれば、≪権利≫というテーゼを掲げたほうがいいんだろうか。
    • ≪自由≫というテーマと≪権利≫というテーマをどう絡ませたらいいか、じつはよく分かっていない。 これは法律の問題なんだろうか、政治とかの問題なんだろうか。 何を勉強すればいいんだろう?








「摂食障害」と「ひきこもり」 ―― 類似と相違

  • 摂食障害と医療の関係」が、「ひきこもり支援」と同型の問題を抱えるというご指摘にうならされた。
    • 「食べない」のは、「本人の意志」によるのか、「やむにやまれぬ受動的苦痛」なのか。
    • 「放置して見殺しにする」のか、「本人の拒絶を無視してでも強制的に治療行為に踏み切る」のか。
          • 「人権尊重」か、「人命尊重」か
          • 【追記 : どこで読んだのか忘れちゃいましたが、たしか≪人権≫は、国家と個人との関係を説明する言葉。 だから民間の支援団体や病院が当事者を強制的にどうこうしても、その行為自体を「人権侵害」と説明するのはおかしいハズです。 単に「犯罪行為」にあたるわけか。 → 引きこもり支援が法的に問題含みの局面を持ち得る、ということについては、考えておく必要があると思うのですが。 「拉致監禁された」などといって当事者が支援者を訴えたら、ケースによっては敗訴するんじゃないでしょうか?】


  • 「犯人探し」において親との関係が問題になったり、現代の流行文化との関係、ジェンダー論的問題意識など、共通するテーマが多い。 【そもそも、摂食障害をきっかけに引きこもり状態に陥ってしまうかたもあると聞く。】
    • しかし、摂食障害(とくに拒食症)は、短期的に命に関わるが、ひきこもりはそうではない。 また、「ひきこもり」そのものは「病気」ではない*1が、摂食障害は「病気」として考えてよいのだと思う*2。 → 私がうかつに「ひきこもり」との同型性を主張したら、摂食障害の方々からは反発があるかもしれない。
    • 抱える苦しみや問題点について、「共有していること」と、「違い」について、検討してみたいのですが、いかがでしょうか。








*1:病気とは認めてもらえないからこそ苦しいという面もある、ということはたびたび指摘してきた。 たとえば、こちらこちらを参照。

*2:違っていたらご指摘ください。 摂食障害の問題については、わずかなことしか存じません。

各問題のディテール → 「共有できるテーマはないか?」

  • もちろん、上記のような同型性は ―― 岸氏ご指摘の通り ――、「ホームレスやセックスワーカー」と「ひきこもり」の間にも言えることなのだと思う。 しかし当然だが、抱える問題のディテールや、個々のポイントにおける深刻さの度合いは、それぞれの問題カテゴリーによって違う。
    • 例えば高齢のホームレスのかたが、「若い人が働けないで閉じこもっている(引きこもっている)」と聞けば、「若いんだったら探せば仕事あるだろう。私たち中高年は、探してもないんだよ」というのは、あり得るのではないか。
    • お互いに「どっちがより苦しんでいるか(追い詰められているか)」を競うのではなく、「共有できるテーマはないか」と考えたい。








邂逅

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多くのかたが書いている通り、うかつなことは言いたくない作品。
いや、でもそういう思いを味わったからこそ、たくさんの言葉を尽くさねばならないのだろうか。
「何を言っても冒涜になる」ような気持ちのあとで。


考えてみれば、≪ひきこもり≫そのものが、そうしたテーマだったはずだ…。
多くの乱暴者たちが、勝手気ままなことを言っているけれども。