現代社会のフォーマットとしての、完成詐欺
- 画家・永瀬恭一 「《完成》は恣意的な判断にすぎない」(togetter)
これは作家としての議論なのだけれど、モチーフとして決定的に大事なのは、
私たちの生活世界への着手そのものに関わるから。
商品というのは、「私は完成しています」という詐欺ではないだろうか。
完成サギに身を染めないと、正しく存在していると見做されない、
それが私たちの生活世界ではないか?
「完成している」というアリバイゆえに、あなたも私も、それぞれの制作物も、
社会的な存在を許されているのではないか。
それを守ろうとするから、いろいろ、おかしくなるのではないか?*1
私にとって「当事者」とは、やり直しの場所ということだ。
名詞形で居直ることではない。 だからなんとか、動詞化したいのだ。
検証して、やり直すことじゃないか、自分の話というのは。
永瀬氏は漱石の『明暗 (新潮文庫)』を挙げているが、
まさに書物というのは、「これから着手しなおす何か」。
お前が目にしているのは完成形だ
おまえ自身がつねに完成品のアリバイを名乗れ
この詐欺を強要されているのが、私たちの意識や関係の編成ではないか?*2
古典とされるような作品は、多くの人がそこに《未完成》を見出すもの、
「もう一度そこに還ってきたくなる」何か。
学問や製品が《完成形》で示されることに、疲れ果てていないか、私たちは。
完成形ならば、順応するしかないではないか。
どうしてそんなものに入門できるんだ。